第十一章 診脉
第二節 六部定位




診脉の道においては必ずしも、心肺を寸で候い 肝脾を関で候い 腎を尺で候う、という法に拘わる必要はありません。ここに拘わって診、ここに曲滞して〔訳注:間違って把われて〕治療すると少なからず治療を誤ることとなります。どうしてかというと、診脉の部位の法には諸説あって同じではないためです。

《素問・脉要精微論》に従えば、左寸は心と膻中 右寸は肺と胸中 左関は肝と膈膜 右関は脾と胃 両尺はともに腎と腹とを候います。《難経》における診脉部位の法は、左寸は心小腸 右寸は肺大腸 左関は肝胆 右関は脾胃 左尺は腎膀胱 右尺は心主三焦を候います。王叔和の《脉経》における診脉部位は、他は《難経》と同じですが、両尺はともに腎膀胱として、右尺に子戸命門の脉を属させています。ですから《脉経図説》には、左尺を腎膀胱とし右尺を命門三焦としています。また《脉訣》では、右尺位はただ命門の脉部とだけしています。今の世〔訳注:江戸時代中期〕の脉法はすべてこれに従っています。また《難経本義》〔訳注:滑伯仁(1304年~1386年)著〕には、左尺は腎膀胱命門、右尺は心包三焦としています。《診家枢要》〔訳注:滑伯仁著〕には、左尺は腎膀胱、右尺は命門心主三焦としています。張介賓は、左寸は心、右寸は肺、左関は肝胆、右関は脾胃、左尺は腎膀胱、右尺は命門三焦小腸としています。

診脉における臓腑の部位は、諸書によって諸説あり、このように一致しません。もし診脉によって臓腑の部位を決定するのであれば、以上の諸説に可非があり、その治療においてもそれぞれに善悪がなければなりません。けれども以上の諸説を説いている人々は皆な名医で、それぞれその治療において神妙を尽くして〔訳注:神業的なすばらしい治療をして〕いました。ですから、診脉における臓腑の部位に強いて拘わる必要はないということがわかるでしょう。

そこで思うに。診脉の道は、両寸はすべて膈上の上焦を候い、両関はすべて中焦胃の気を候い、両尺はすべて下焦を候うとすべきでしょう。必ずしも左寸は心 右寸は肺 左関は肝 右関は脾 左尺は腎 右尺は命門といった、部位に曲滞する必要はありません。



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