第十四章 (いわゆる)学医の治療無効の論




門人が聞いて言いました。世俗は、学ぶ者の治療には効果がないと言いますけれども、そうなのでしょうか。

答えて言いました。医を学ぶことが反って治療に害があるのであれば、《素問》《難経》および古今の諸書がどうして貴ばれているのでしょうか。これは愚昧な者の言葉です。

けれども世間には、学はあっても治療効果をあげられない者がいますし、また、学はなくても治療効果をあげられる者もいます。愚俗はこれらの者を見て、学ぶ者の治療には効果がないと言うのでしょう。

医は意であり理です。医者はその意を臨機応変の理にまで到達させなければなりません。それができなければ、たとえ千万の書物を読んで学に長じたとしても、一隅に執滞して治療の神効をなすことはできません。







私は(ひそ)かに考えています。学に長じていながら治療効果をあげられない者は、おそらくその人の天情無才覚なため〔訳注:もともとの才覚がないため〕、臨機応変がなく、ただ堅く古法に拘泥して意の働きがなくなっているためでしょう。

中風のようなもので、左半身が不随のものは血虚瘀血、右半身が不随のものは気虚湿痰と述べられていることに拘わり、左半身不随のものには必ず活血補血の薬剤だけを用い、右半身不随のものには去痰補気の薬剤だけを用いる類です。けれども左にも気虚痰症のものがあり右にも血虚瘀血の症のものがあるのです。また陰脉でも反って冷寒の剤がよく応じる場合があり、陽脉でも反って温熱の剤がよく応じる場合があります。また実の人に反って虚脉があり、虚の人に反って実脉がある場合があります。

稟質(ひんしつ)【原注:うまれつき】の天性にはさまざまな違いがありますので、才覚がなく意の働きがない人は、学問はあっても治療効果をあげることが少ないわけです。無学でも治療効果をあげられる人は、その天性に自然な才覚として意の働きがあります。ですから学ばなくとも自然に臨機応変の理に通じているのです。けれども難病や奇症の原因を察し、病名を弁じ、死生の遠くを察する〔訳注:予後を知る〕ということになると、学問がある人と同日に語ることはできません。

愚俗はこれらのことを見て学ぶ者の治療が無効であると言います。けれどもそれはすべて、その人の天性の器量や才覚の有無にあるのであって、学問が治療の妨げとなるということではまったくありません。

もし天性の才覚や器量が達している人が、学問に長じて治療すれば、神妙の効果〔訳注:素晴らしい効果〕を得ることができるでしょう。勇猛で力のある人が、利兵〔訳注:鋭利な武器〕をひっさげて敵に向かうようなもので、どのような邪気でも平らげてしまうことでしょう。







また学問もなく才覚も器量もさしてなく、さしたる手柄もないのに高名で世に聞こえる人もいます。学問も才覚も器量もあり、しかも治療効果もたくさんあげていながら、世の中に名の知られていない人もあります。これらはすべて医師の幸不幸にあります。たとえば常人五十人に効果があっても、富貴の家の一人二人に手柄がないと、世にその名を(とどろ)かせることはできません。もし常人にはさしたる手柄があげられなくとも、富貴の家の一人二人に手柄をあげることができると、その名が高く鳴るものです。ですからその名が世に鳴るか鳴らないかということは意外に、医師の善悪によるものではないということが理解できるでしょう。



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