第十五章 関格覆溢脉の論




門人が聞いて言いました。《難経・第三難》に『脉には太過があり、不及があり、陰陽相乗があり、覆があり、溢があり、関があり、格があると言いますが、この意味は何なのでしょうか。 然なり。関の前は陽の動ずる場所です。脉は九分の長さに表われて浮きます。これより大きすぎるものは法に太過と言い、これより減ずるものは法に不及と言います。 魚にまで上ったものを溢とし、外関内格とします。これは陰乗の脉です。 関の後は陰の動ずる場所です。脉は一寸の長さに表われて沈みます。これより大きすぎるものは法に太過と言い、これより減ずるものは法に不及と言います。 尺にまで入ったものを覆とし、内関外格とします。これは陽乗の脉です。 そのため覆溢と言います。 これはその真臓の脉です。この脉が表われた人は病気でなくとも死にます。 』と述べられています。この大過不及覆溢関格の詳解をお聞かせください。







答えて言いました。これは診家の切要ですから、よく理解しておかなければいけません。

この難の大過 不及 覆溢 関格を解釈するものの多くは直接、寸尺を用いて弁じています。けれどもそれは正しくはありません。越人のもともとの気持ちは、その診候はただ関上だけにあります。そもそも寸の長さは九分、尺の長さは一寸、全部で一寸九分です。その寸の中から三分取り、尺の中から三分取って、六分の間を関位とします。であれば寸尺の陰陽が交通している胃気の診候〔訳注:診察位置〕はここにあるわけです。

無病平和の関脉は、陰陽が平等に交通して、陰陽の勝ち負けはありません。これが寸脉は九分に現れ尺脉は一寸に現れるというものです。もしその関位がたとえば陽脉が四分あり陰脈が二分あれば、寸の太過で尺の不及です。もし関位に陰脉が四分あり陽脉が二分あれば、尺の太過で寸の不及です。

本文では直接寸尺を用いて過不及を述べていますけれども、その診候においてはただ関だけにあるのです。それを後人はただ文だけに従って、寸尺の候として弁じていることは、越人の本心ではありません。その覆溢関格もまたそうです。

その関位に陽脉が全くなく、ただ陰脉だけのものを溢とし、外関内格とします。これは尺陰が関に溢れて関中の陽を奪ったものです。ですから陰乗の脉とします。その関位に陰脉が全くなく、ただ陽脉だけのものを覆とし、内関外格とします。これは寸陽が関位を覆して関中の陰を奪ったものです。ですから陽乗の脉とします。

この二種類の脉は独陰独陽であり、陰陽の平等と和通を失っているので、真蔵の脉とします。真蔵とは、胃の気の和平を失っているものの呼び名です。

これを後人が、尺脉が有余して寸に溢れ、さらに溢れて魚際にまで出、寸脉が有余して尺に覆し、さらに余って尺外にまで出ると誤って述べているものはすべて、《難経》の本心ではありません。経に魚に上り尺に入ると述べられているのは、独陰独陽の文勢を強めるための言葉です。診候においてはただ、関位の上だけを診ているのです。

滑伯仁もまた、この難の切要は関位にあり、その深義は文筆に及ぼしにくいため、図にして後学に示しています。読む者は《難経本義》の関格覆溢の図を必ず用いて深く熟得すれば、越人の心髄に達し、私の言葉が誤りではないということが理解できるでしょう。



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