気一元の医学





東洋医学とは聖人の学です。聖人とは、言葉の存在しない未整理の混沌たる状況の真っ只中に立ちながら、存在するものたちの声や形を聞きながら、それを整理し名前をつけた者たちのことです。存在の声を聞く、これこそが、聖人の心の大いなるあり方でありました。

聖人は言葉を発することを通じて論理を用いました。その論理性の中のもっとも未整理なものが混沌、太極というものです。太極は未だ言葉が発せられる以前の状態、未分化の混乱そのものです。これを一気に眺めすかすことによって、先ず聖人は陰陽の理を育みました。分けることのできない一つのものを二つの角度から眺めなおすという行為、これが陰陽理論です。

時代が下り、陰陽理論はその発祥のときを忘れて独り歩きし始めました。すなわち太極を忘れた陰陽、実際に陰のものと陽のものとが存在し、その対立と調和という観点から物事や存在を分析しようとする姿勢です。この、陰陽という二つのものが存在し、三才という三つのものが存在し、五行という五つのものが存在し、それらが交じり合って(太極という)存在が成立しているという発想は、まさに倒立した存在論、認識論であると言わなければなりません。

けれども、その理論としての独自性を発揮しやすかったため、また、分析的な頭脳を刺激しやすかったために、この考え方が時代を超えて支配的な考え方となりました。ここに聖人の知恵を離れて幾星霜という現代の思想状況ができあがってくるわけです。

この考え方は、言葉争いとしては強力な武器となりますが、実際に治療に携わる我々や、身体を動かす拳法家にとっては、飾りものの理論にすぎないものとなってしまっています。


このような状況に対して再び聖人の道を建て直すために初心に帰ることを私は提唱します。

それこそが、気一元の医学という言葉の意味です。











一元流