靖国神社へ





靖国神社へ




私は、二年前までは普通に東京裁判によって作られた日本観を受け入れ、今の 若者のように大人を、大人であるだけで憎み、その血を嗣いでいる自分自身に 対して焼けつくような絶望を、無意識のうちに抱いてきました。

そして、国家というものを考えるときには、ただその枠組みが消えるように、 国家というものが破壊され、それによって世界に対してすべて開かれるように と、そんなことを夢みていました。






インターネットの世界を味わうとともに、アイデンティティというものがいか に大切か気づきはじめました。地球が一つの国家になり、地球上から戦争が消 えたとき、そのときにあるものは、一つの民族それぞれが、その生活の場を 得、その場を愛する中から生まれ出た文化を大切に育んでいく。そのそれぞれ の文化の花を大切にするなかから表現していく作業が、地球という国家を豊か にし、すばらしい生命の花園にしていくのだと理解できました。

これは、それぞれの花が、私が一番素敵!!!!!と咲き誇ることが大切なのであろうと思っています。そう、本当のことを言うと、私の民族の歴史を大切にしたいのと同じように、あなたの民族の歴史を大切にしていきたいと、そう思って います。






歴史には加害者もなく被害者もありません。ただ、その歴史があったという事 実。それを大切にしたい。戦争があればそれは深いつながりがその歴史を作っ たということですし、平和であれば、上手に関係が築けたということでしょ う。

今、歴史を作りながら生きるとき、私は英霊を奉賛することから始めるしかな い自分に気づきます。なぜなら、私はこれまで、黄色人種の独立のために戦っ た勇悍無比なわが先祖を、戦争犯罪者として軽蔑していたからです。心底、東 京裁判史観に毒されていた自分を恥じるとともに、大東亜戦争とは一体なん だったのか。そして、終戦後の歴史はいかに考えられるべきなのか、よく理解 できたのです。






私は、いわゆるエリート教育を受けてきましたが、それこそがアメリカによ る洗脳教育の最先端であったということ、その手先が平和を愛好する日本人教 師であるということと、そのことに深い怒りを覚えます。文部省は、この亡国 教育を即刻やめなければならない。教育者を変えなくてはならない。歴史観を 確立しなればならない。日本という国が明治維新以降、国家としていかに独立 と平等を勝ち取ろうとして戦ったのか、その無心の力のすばらしさを、私は顕 彰しないわけにはいきません。

そのために、私は、私の今までの存在のすべてをかけて、わが国の平和の礎を、その生命をかけて築き上げた父祖である「英霊」を奉賛するため に、靖国神社に参拝しにいくことにしました。






私の生き方はここからまた始まることになるであろうと、私は確信しています。






2000年7月7日金曜日






忠君愛国 靖國参拝