現代においては、考察の対象を周辺から分離しあるいは解剖し、あるいは細分化して分析していくことによって、その本質を見極めようとする方法論が主流となっています。これに対して私は、そうではなく、考察の対象を一つの生命の括り、一つの経済圏のくくり、ひとつの自然圏のくくり、歴史のくくりとして、その有機的な生命体をそのまま構造的に見つめることによって、その本質を見極めようとします。
有機的な生命体をそのまま構造的に見つめるという方法論のことを私は、「一」をもって考察する、というふうに表現しています。「一」をもって考察する上でもっとも大切なことは、「一」と規定した対象が、どのような範囲でくくられているのかということに、いつも注意深く心を配らねばならないということです。くくり方そのものにすでに自分自身の思想性が表現されており、このくくり方が、考えを深めていく上でもっとも基礎となるものだからです。このことを私は、「一」というくくり方に「目覚めつづける」と表現しています。
このことは、人という一くくりの生命のことを考察するとき、それを肉の塊としてみるか、身心としてみるか、身心霊魂としてみるのか、あるいは家族という場の構成員としてみるか、国家の一員としてみるか、会社の一員としてみるかで、あたかもまったく別のものを見ているかのように見え方が変わってくることからも理解されると思います。
私はけっして、どの見方が正しくて、どの見方が間違っているという評価を加えるためにこのような方法論を提示しているわけではありません。そうではなく、それぞれの見方のそれぞれの基礎を確認する中から、そのそれぞれの固有の正しさを味わっていきたいと思っています。個性的な考え方というバラエティーに富んだ豊かな食事をとることによって、物事をさまざまな角度から見るという、考える行為の自由、楽しさを獲得していければ嬉しいと、私は思っています。
「一」を知る、というよりも、「一」を知ろうとする運動を続ける意志を持ちつづけるという決意をもって、私はこの場所を【知一庵】と名づけました。
「一」を知ろうとする運動を続ける意志を持ちつづけるということは言葉を替えると、私は常に間違っている、自分が真理に到達したとして、人に語りかけることはないということを意味しています。そして、それは、他の人が絶対的に正しいということもないし、正しい必要もまたないのだということを意味しています。「間違っていてもいいじゃない、踊りを楽しもーよ」この場所は、そのような知的冒険の場所としてありつづけたいと思っています。