経穴を見つけるための経穴学



総論:経穴と臓腑経絡

経穴の診方と評価

流れの中で経穴を診る
脉診を経穴診に応用する
周辺の筋と経穴との関係
筋肉の重なりと経穴との関係
骨格と経穴との関係

経穴探索の実際

筋腹の経穴
骨間の経穴
骨上の経穴
骨際の経穴

経穴の動きと生命力

経穴が逃げるとは何か
弱るとはどういう意味か
実の穴は虚の穴か?
生命力の充実とはどういうことなのか




総論:経穴と臓腑経絡



気一元の身体というものを構想するとき、臓腑が根であり経絡は枝葉として位置づけられます。臓腑という根から発生した生命力が、経脉を通じて全身を構成し養っていると考えるわけです。

言葉を換えると、生命の流れが全身を養うその生命力の根幹が臓腑であり、枝葉が経絡であるということです。

経穴は、この枝葉である経脉の生命力の流れの中にさまざまな表情を持って生まれる、流れの渦であると言えます。

流れの中には、さまざまな流れがあります。これを古典ではその主る臓腑を仮りて、気血という陰陽関係を用いて表現しています。いわく、多気多血(陽明)・多気少血(太陰・少陽・少陰)・少気多血(太陽・厥陰)です。

経脉の流れる位置が、その各々に骨から肌肉までを包含しているということから考えると、これは実は生命力の表情の一部を指し示しているものにすぎず、実際には陰陽のバランスが取れている気一元の生命の流れがそこにあると考えるべきところです。

さて、その生命の流れがさまざまな表情を取るきっかけとなるものに、その流れが流れる場所の問題が存在してきます。すなわち関節や筋腹や骨間との関連です。そのため、この位置に経穴が配当されることが多くなっているわけです。

また、生命はそのの中心から上衝し、華蓋に突き当たり、全身を充満しながら流れていきます。経脉上におけるこの生命の観察地点を、古人は原穴として定めています。これは、いわば気血という陰陽のバランスが取れている位置。その経脉の生命力の状態がもっともバランスよく現れている位置です。基本的には、ここより末端にあれば気が多くなり中心に近ければ血が多くなると考えられます。

末端というのは表面であり上部であり、中心とは裏であり下部であり、中心の中心は臍下丹田です。

次にこの経穴を観るという行為をその観点から分類して、やや概念的に解説していきます。




経穴の診方と評価







流れの中で経穴を診る

生命の流れの中に一点の経穴が派生しているということから考えると、流れというものを観察するということがもっとも基本的なことであるということが理解できるでしょう。

流れ。それには、大きな黄河のような滔々たる流れもありますし、山間を流れ落ちる小川の流れもあります。樹間を流れ石の間を流れちょろちょろと滴り落ちるような流れもそこにはあります。

生命力は基本的に充実したものであるため、流れは滞ることなく一定した量を保ち緩やかにしなやかに流れていきます。このことを明確に表現している言葉が、脉診における緩滑徐和〔注:緩やかに元気よくゆったりと調和が取れた流れ方〕というものです。これは武道において脱力(リラックス)するということが重視されること、スポーツにおいて、柔らかい筋肉が尊ばれ、緊張と弛緩とが自在にそこに起こることが重視されるということとつながってきます。

言葉を換えるならば、充実した損傷のない経脉には、経穴反応は現れにくいものであるということでもあります。しかし、このような完全な身体を保持し続けている人は存在しませんので、どのように健康に見える人にも経穴反応は存在しているものです。

治療家として患者さんに対するとき、そこには目に見える実質としての身体があります。ですから、あたかも動かない物体を観察するようにあわてて治療点としての異常を探すことがあります。けれどもそれは少し違うということは、ここすなわち生きている人間を見ているということから理解することができるでしょう。物体に触れるのではなく、目の前に存在している生命の流れに触れていくわけです。







脉診を経穴診に応用する

生命の流れに触れていくわけですから、そこには深さがあります。上文では川の流れをたとえとして使用していますが、身体を地球として把握するとき、流れの中にはまさに深海流のようなものもあります。表面は流れているのに、深い位置では流れがなかったり、表面には流れとしての表情が現れていないのに、深い位置では非常に速い流れが存在している場合があります。

流れ。そこには、寒流もありますし暖流もあります。流れにくかったり速く流れすぎたりするものもあります。

東洋医学ではこの流れの深さや速さ、その表情の微細な表情をどのように表現するかということを脉診を通じて知ることができます。脉診はまさに寸口の位置における動脉の表情をさまざまな角度から把握しなおしたものです。

脉診は、その深さにおいて五段階に分けて診るということも《難経》では提示されていますし、また、その位置を前後と中心に分けて、寸尺関という言葉を当てて表現してもいます。このことを応用すると、経穴の深さ、その前後の状態との関連などについて、気の流れ生命力の流れとしての経穴診を深めていくことができます。

寸口の脉診を応用していくことによって、経穴診をより詳細に緻密に表現していくことが可能になるわけです。

このことは、脉診を立体構造して把握する、その同じ行為が経穴に対しても行なうことができるということを意味しています。ただ、経穴診は、その部位において動脉が流れていない場合がほとんどであるため、気の流れを診るということが中心となります。また、動脉という流体をそこに触診できるわけではないので、その経穴に現れている形状をもって、気の流れ具合を推測していくということになります。これが寸口の脉診ともっとも異なる点です。さらには、経穴の位置というのは、百脉が朝会している寸口のような全身状態をその縮図として表現する場所ではなく、より一段下った部分を観察していくわけですから、ここにも経穴診のより偏った位置づけがみてとれます。







周辺の筋と経穴との関係

筋肉というのは、経脉の流れによって養われて存在しているわけですけれども、その養いが衰えると、筋肉が痩せてきます。臓腑の力が衰えることによって筋肉が痩せてくるのか、その筋肉を用いることが少ないために養う必要が乏しくなってそれが痩せてくるのか、外傷によって痩せてくるのか、それは個人々々によって異なってきます。筋肉がやせているということは、経穴を支える深部の生命力が乏しくなっていると理解できます。

これが極端になってくると、生命の川が浅くなって、その底の石や堆積物や枯れ枝などが表面に現れてくる事態となります。また、生命力が横溢している時期には一筋の奔流として存在した流れが、枯れてくることによって蛇行したり分離したりすることにもなります。

このような場合には、経穴反応も明瞭となり、またその位置も、いわゆる定位置からずれたり、何箇所にも分かれて出現することになります。さらには、近傍の経穴とつながって、経穴の中心が見えにくくなったりもします。

経穴は基本的に皮膚表面から最初の筋膜の位置までの間に現れるものですが、これが深く筋層の奥にまで形状として現れることともなります。

また、筋肉の生命力が弱ると、一体となっていた筋繊維が分離して、その間に深い溝が構成され、そこに経穴が隠れることもあります。







筋肉の重なりと経穴との関係

また、上記の経穴の周辺の筋肉の状態とは別に、筋肉と筋肉との重なりの間、筋膜の間に隙間ができ、そこに経穴が隠されていることもあります。これはその患者さんの全身状況などを勘案しながら予測をつけてみていくようにしないと、把握することが非常に難しいものです。







骨格と経穴との関係

筋肉の状態が経穴に現れてくるということを述べました。筋肉は骨の構成を支えている本体ですので、それは骨格の形状にも影響を及ぼすこととなります。このことはつまり、骨格の異常から筋肉のバランスの異常を見通し、筋肉の状態を経穴の異常から把握しなおすことができるということを意味しています。

このことはつまり、全身の骨格の状態から経穴の異常を予測し、それを整えることによって、骨格を整えることもできるということを意味しています。

これはまた逆に、骨格を直接整えることによって、経穴の反応をもある程度は調整できるということを意味しているものです。




経穴探索の実際



経穴の表現はさまざまです。経穴から気が激しく出ていることを感じることができる場合もありますし、経穴が生命力としての表現をやめて沈黙していることもあります。また、その表面の滑濇・乾湿・寒熱・硬軟といった機能的な表現を感じることもあります。さらに上で中心的に述べた形状の変化というものもまたあるわけです。

このような表現の癖は、経穴の位置によってある特性がありますので、ここではより具体的に、経穴を支える部位にしたがって、その特徴を述べていきます。







筋腹の経穴

筋腹に存在する経穴は、最もその表情の豊かなものです。

それは、筋腹そのものが柔構造であるためです。

その筋腹にも実は、腹部と背部、そして体側、大筋である大腿や下腿、肩背など、その隆起の豊かさと柔らかさに、それぞれの個性があります。この部位の経穴は、深い位置まで立体的な経穴の構造を有しており、それが、その経穴を支える筋肉の形状と密接に関わっています。このため、筋肉の張り・硬さ・柔らかさ・疲労による筋繊維の分離などの周辺の状況によく注意して、経穴の位置や状態を観察しなければなりません。

筋腹は、生命力の充実している、「末端」の場所であり、生命力が弱ってくるにしたがって、その筋腹も緩み、さまざまな表情が出てきます。また逆に、「終末」であるがゆえにそこに生命力が欝滞しやすいため、また別の表情が出てきます。

生命力が充実しているということは、流れに滞りがなく滔々と流れているということです。その流れの波頭は、余気として溢れ出し、汗となり皮膚を潤し艶を与えます。そのように滔々と流れ充実した筋肉をまず頭に思い描いてください。

筋肉が痩せるということは、生命力が行き渡らなくなってきているということを意味しています。そこにより内側の骨の状況や滞りの状況が、あたかも流れの中に棹差す石や枯れ枝のごとく流れをさえぎり、あるいは渦を巻き、あるいは陥入して経穴の表情を形成していきます。これが、関節の周囲に重要な経穴が存在する理由です。

流れが岩にぶつかるとその波頭は強くしぶきを放ちます。体内にあってはそれは局所的な汗になったり、汗が出ない場合には気が欝滞して熱を生じたりします。熱を生じるほどそこに気が集まることとなりますので、その部位は厚くなり塊を生じたりします。これはその周囲の生命力が弱ることによってその部位に欝滞が生じたものです。

さらに生命力の量が少なくなると、欝滞している部位が多くなり、その流れそのものの弱さと強さとが交錯してきます。まるで、川に淀みと早瀬があるような感じです。

さらには筋肉そのものが割れて、底が現れたりもします。川の水が枯れて川底が現れるような感じです。

足三里のような部位では、海溝のように深い溝が長々と続いたり、深く陥凹して中心がわかりにくいほどになります。背部兪穴であれば、二行に割れたり、陥凹した経穴が隣接する経穴とつながったりします。腹部であれば、全体が弱々しくなり、底の石が現れるように筋張りが出てきます。生命力の流れそのものが弱ってきますので、寒えが上がってきたりもします。この状態を危兆として古人は残していますが、それを経穴の状態に置き換えることができます。

経穴としての機能が行われなくなると、隣接の生命力でそれをカバーしようとます。そのような経穴は、経穴自身の表情が乏しくなり、平板で能面のような生命力の反発を感じることのできない経穴となります。これを動きのない経穴と呼んでいます。







骨間の経穴

骨間は、その形状からして早瀬となりやすい狭隘な場所です。そのため、その変化の動きも早くなり、停滞も出やすくなりますので、五行穴はその多くがここに位置しています。その表情は筋腹の経穴と比較すると繊細になります。筋肉そのものが緩んでも、骨に支えられているため、その表情は明瞭に現れにくいものです。

このため、骨間の経穴にあっては、指尖を繊細にして、その微細な変化を読み取るようにしなければなりません。また、寒熱や硬結なども明瞭に現れやすいので、その表情を見落とさないよう留意します。







骨上の経穴

骨上の経穴は、取り残された生命力が滞留しているように現れたり、筋腹ではなく骨膜が緩みやだぶつきを現わします。寒熱や生命力の有無という観点から観察していきます。







骨際の経穴

骨際は、片側が骨に支えられているもので、骨の方向に指をなぞるようにすると診やすくなります。硬結や寒熱や緩みが現れます。




経穴の動きと生命力



経穴には教科書的な位置があります。けれども、実際の経穴は、教科書的な位置を外れて出ることもよくあります。これは、生命力が弱り、その締りがなくなるために起こるものです。ここではそのことについて語っていきます。







経穴が逃げるとは何か

冒頭にも書きましたけれども、経穴の位置が教科書的な位置からずれるということはよくあることです。これは、経穴を支えている筋肉が弱ることによって、筋繊維がばらついたり、本来の経穴の位置の筋繊維が拘縮を起こしたために、その位置に生命力の状態が出にくくなり、より出やすい周辺(前後左右)に経穴反応を出していると考えます。

この概念の大本は、背部腧穴の定め方にあります。背部腧穴は臓腑の生命力が直接的に現れる場所であるわけですけれども、脊柱があるために傍らに出ていると言われています。この発想の応用ですね。

硬結の前後や左右に緩みが出たり、ダンボールが波打つように、段々になって堅さや緩みが交互に出るなど、この旁出した経穴の表現は非常にバラエティーに富んでいるものです。ここから、波頭のような経穴に対する概念の広がりが出てくるでしょう。







弱るとはどういう意味か

硬結としての表れであれ、緩みとしての表れであれ、それはともに生命力が充満しきっていない経脉の中の状況を示しているものであって、元をただせばその経脉を主る臓腑の生命力が充分に表現されていないということがその原因となります。

臓腑の状況は経脉だけではなく、主訴を含めたさまざまな症状として現れているものです。そのため、ここに四診合参して臓腑の状況を明らかにしていく必要性が出てくるわけです。

川が流れようとするとき、障害物があると欝滞しやすくなりますし、流れる水の量が少ないと欝滞が明瞭に現れます。前者を実と呼び後者を虚と呼ぶ習性が鍼灸師にはあります。けれどもその実態は、生命力が弱ることによって流れが留滞しているというところにあります。

さらには、水の粘稠性〔伴注:ここで川のたとえと離れるわけですが・・・〕によっても、その現れ方が変化します。人間の場合、精神のあり方や、筋肉の使用頻度によってもこの粘稠性が変化し、また流れる生命力の量が変化します。

いわゆる肝欝や内湿といったものは、この粘稠度を高め、流れに滞りを作りやすくする大きな要素となります。また、瘀血というものは、この流れがある位置に停留してあたかも鍋の底にこびりついた焦げのようになっているものを指しています。

内生の邪はこの滞りを起こさせ、それを強調し、また、その邪が存在することによって常時内側から生命力の流れを滞らせているものであると言えます。

湿痰であれ瘀血であれ、この内生の邪はそれが原因となって生命力の流れを損なっているわけですけれども、張景岳はこれは生命力の虚によって内に生じたものであって、本来の生命力が発揮されればそれは、生命力を支える原資となるものであると喝破しています。

この張景岳の観点から見ると、長い目で見ればどのように邪実が中心に見える疾病であっても、生命力の弱りがその根源に潜んでいると考えられるわけです。







実の穴は虚の穴か?

ですから、経穴における実(腫れて堅くて熱をもつ)というものも、その背景には虚があることが多く、その虚の実態を見つけてそこに棹差すことによって生命力そのものを回復さえることができれば、実が緩むことになります。

そういう観点から考えると、経穴を探すという行為も、上記の張景岳の至言のとおり、虚の中心を探るということがその中心的な作業となるわけです。







生命力の充実とはどういうことなのか

四肢末端の経穴を通じて経脉を整えるということは、臓腑の生命力の表現である経脉の流れを整えようとする行為です。末端を使って臓腑の生命力を整えようとするわけです。

これは言葉を換えれば、臓腑という源から生命力を引き出して、その経脉の形を整えようとするものであると言えます。もし臓腑の生命力そのものが弱っている場合、さらにその生命力を四肢末端に強引に引き出すこととなり、かえって全身の生命力を弱める結果となります。

真に気一元の生命力を充実させようとするならば、その問題の根源が臓腑の弱りにある場合には、臓腑に生命力を引き集めることによってその回復を待ち、自然にその生命力が四肢末端に溢れ及ぶように期すということが目標となります。

ここに、体幹の経穴を重視し、中心を定めていく方向で治療するという、一元流鍼灸術独自の観点が存することとなります。



一元流
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