生命の森





種としての生命をつなぐために、性差が明確に現われ、それまでの個としてのみの生命様式との懸隔が生じるために、人は、肉体を通じて精神におよぶ形での「不安定」、すなわち完結しない自己を自覚し、自己実現のために異性を求めるという本能的な行動様式を取るようになります。いわゆる種族保存の本能と、これの変形としての恋愛・闘争等々といった精神的な不安がそこに存在することとなります。

これを社会として包容するために、家族という形式として安定させようとするための、基本的な道徳が形成されたのではないでしょうか。この形態が地域の風土によって異なるため、それぞれの伝統社会が、まるで地上の各所に咲き誇っている多様な花々のように作り出されきたのだと言えるでしょう。

個人を超越した意味をもつこととなるこの伝統の問題は、しかし、現代に生きる鍼灸師としてはその及ぶ範囲を越えているので、ここでは詳しくは触れません。しかし国手として自己を位置づけようとする者は、このことをよく考えなければなりません。






さて、そのような成長過程を持つ「人」にとって、病とは、個としての肉体的なものの場合と、種としての社会的なものの場合とがあるわけです。また、その間には、密接不可分の関係があります。そのため、社会的な関係の健全なあり方を指し示そうとしている学問、社会学、経済学、宗教学、社会心理学の各分野の成果は、個人としての肉体を対象とする医学においても、参照する価値のあるものであると言えましょう。東洋医学で考える医学は、このように深くかつ広大な「人間の学」です。

自由平等民主主義という、個人の尊厳を最大限に表現している価値観が、伝統的な社会にとってカウンターカルチャーあり、その観念の過度の推進が伝統に対して破壊的な作用を及ぼす理由は、人間のこの二重の存在様式をみる時、容易に理解されるでしょう。

個人主義で語りうる世界は、まさに成長期の子供時代に自然にもちはじめる価値観にすぎません。しっかりした生殖機能を保持して伝統文化を作り上げた社会にとって個人主義は、深い森を擁する伝統社会という島の海辺にある、石や木や珊瑚の残滓によって作られた砂浜のような意味しか持ちません。

個人主義の価値観で世界を解釈したり、その思想を世界に強制しようとすることは、この砂浜を世界の全てであると信じ、それを世界に拡大させ、豊かな森である文明を破壊し、砂漠化する行為となります。






病という時、充実した性差をもった人に至るまでの個の病ということと、社会の中での自己の存在様式としての病ということの二種類の大きな病が存するということを述べました。

が、しかし、鍼灸師として対象となる患者さんの病は、個を対象としたものであるということもまた、これまで述べてきた通りです。

いわば、個の充実を計ることによって健全な社会を保つために貢献しようとするのが、鍼灸師としての使命であると言えるでしょう。











一元流