三部書 原序



疾病を治療する方法は非常に多いが、その大要は鍼灸と薬石の二道を出ることはない。なぜか。

人身は、内外が一体であり表裏が一貫しており、気血が運行され脉絡が貫通されるのは、全てひとつの精気によって営まれ運行されているからである。このような身体を治療していくには、それぞれの場所に最もあった治療法をその都度とっていくべきであり、また、それぞれの方法の中で治療の限界を作るべきではない。

《素問》に、毒薬{漢方薬}でその中を攻め鍼灸でその外を治療する、とあり、また《扁鵲伝》には、病が血脉にあるものは鍼灸治療の範囲であり、病が腸胃にあるものは酒醪{漢方薬}による治療範囲である、と語られている。

内外一体の理は、ここから推察していくべきである。







このような次第で、鍼灸の法が世に行なわれて、すでに長い年月が経過してきた。

古くは、《素問》《霊枢》《鍼灸甲乙経》《千金方》《外台秘要》にその記載があり、時代を下ると《銅人鍼灸図》《明堂鍼灸経》《徐氏鍼灸経》《鍼灸資生経》《鍼灸聚英》《扁鵲鍼灸神応経》《十四経発揮》の類が著わされ、枚挙にいとまがないほどある。

しかし、書籍には法則が述べられているだけで、術はその法則を運用することにその関鍵があるのだから、非常に深く精魂を傾けることのできる人物でなければ、この道の精妙を会得することはでき難い。







古い昔の話しはさておいて、延宝年間{一六七三年~一六八〇年}に、杉山和一という人物がいた。

卓絶奇偉の人〔勢州津の藩士で、父を杉山権右衛門という〕で、幼少のときから江戸に出て鍼を山瀬琢一について学んだ。

琢一はその術を京師の入江良明に学び、良明は、鍼をその父の頼明によって伝授されている。頼明は、豊臣秀吉の医官であった岡田道保から鍼法を伝授されている。

和一は初め非常に愚鈍であった。師である琢一が順々に経絡と経穴を教えていっても記憶することもできなかった。そのため琢一は怒って、和一を追い出してしまった。







和一はこれによって非常に発憤し、江ノ島の天女の祠に篭って祈り、飲食を断って七日、「私の名を世に発することができれば、それは神の賜であります。もし術が成らないのであれば、速やかにこのまま生命を絶ってください。」と誓ったのである。

七日間が過ぎ、苦しんで死にかかったとき、和一は恍然として鍼と鍼管とを授けられたのであった。

これに従って精思刻苦し、大いに覚るところがあり、終にはその名を天下に轟かせるに至った。







徳川厳有公はその名声を聞いて和一を城に呼び寄せ、後継ぎの常憲公の病の治療をさせたところ、和一の鍼によってすこぶる効果を得ることができた。

そこで公は和一に「何か欲しいものはないか」と聞いたところ、和一は、「私はこの世の中で特にこれといって欲しいものはありません。しかしもしでき得ることなら一つ目が欲しいと思います。」と答えた。

公はこれを聞いて和一を憐れみ、本所の一つ目を下賜し、五百石の祿を給付した。これは後に増加して八百石になっている。

また、特命として関東の総検校の地位を与え、研修所を建てた。この研修所は、鍼治講習所と名付けられ、全国より門人が集まったため、一つの鍼の流派を開くに至る。これを、杉山流という。







その著述には三部があり、一つを大概集〔鍼の刺鍼法と病理論を説く〕といい、二つめを三要集〔鍼の補瀉と十四経の理〕といい、三つめを節要集〔先天・後天・脉論〕という。

この書は畢生の精力をもって鍼法の秘蘊を述べたものであり、手箱の中に秘蔵されていた。







今この明治十三年に、前の検校明石野亮と和一の十九世孫昌大とが相談の上、官に乞い基準となるものを作成することになった。また、書き写される過程で間違って伝えられ人命を損なうことになるのを恐れ、さらに校正を加えて印刷し世に交付することとなった。

ああ、亮は、先師の遺法をここに伝えることができただけでなく、この道を学ぶものに、その疑義を始めて解かしめ、理解し難い理も自ずから明確に理解できるようになさしめることができた。







この書は、真に鍼治療家の秘伝を伝え膏肓の巣穴{①難病の巣くう場所 ②鍼治療において理解し難い暗部}を根絶やしにする力を持っているのである。

このような書物を刊行することは、まさに世に裨益すること非常に大であると信じる。亮と昌大の二人がこの書を刊行するに至り、彼らの慈航の徳・済世の効はいつまでも亡びることがないであろう。

これをもって序にかえる。



明治十三年二月穀旦  儲宮直舎にて書す

今 村  亮






一元流
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