謬鍼を論ずる 第四




世の中には鍼灸を業としているにもかかわらず経絡さえも知らない人々がいる。また、鍼を用いるときには薬を用いない人々・天地の理を人身に集約させて考えていくことができない人々・施鍼する場合に浅く鍼することのみで治療していく人々・全ての病気はただ腹を治療すれば治るとばかりに経絡について考えてみようともしないような治療法を代々伝えている人々がいる。愚かな人々はこのような治療を貴ぶので、鍼の道は非常に簡単であると、いいかげんに鍼を施すものが非常に多い。私はそのことによって起こる弊害を非常に憂えるものである。医学の大本はそもそも《内経》に始まっている。鍼経九巻すなわち《霊枢》に始まっている。そこに描かれている鍼の道には、鍼を用いるときは薬を用いてはいけないとか・経絡を理解せずに天地の理を行なうことができるとか・浅い鍼を用い深い鍼は用いないとか・腹部にのみ鍼し四肢には鍼しないといったことは、書かれてはいない。このような治療を行なうのは、奇異なことを行なって人々に媚びようとしているに過ぎないのではないだろうか。医の道は本来生の道である。にもかかわらず、なんと愚かなことがなされているのだろう。







経に、『五法ともにあるが、そのそれぞれに長所がある。』とあるのはこのことだろうか。







天道を知るということは、道に明るいということである。これを人の身体に集約させて考えていけなければ、どうやって病気を治療していくというのであろうか。







経に、『人は地から生じ、命を天に懸ける。天地の気を合しているので名付けて人というのである。天には陰陽があり、人には十二節がある。』とある。







この十二節とはなんだろうか。十二経のことである。経絡を知らないものが天道を人身に集約することなどできようはずがないとは、このことを言っているのである。

全ての病気は経絡を通じてなるものであるのに、経絡を理解せずにどうして病気を治すことができよう。

浅鍼の術は、虚労の人に最も適したものである。しかし虚している人に鍼をしてはいけないということは前にも述べたとおりである。薬を用いて補うべきである。

元気な人が病気になった場合に浅鍼を用いるのは、変気に対して用いる術であり、主体として用いるべき方法ではない。

変気の論によると、内は五臓骨髄まで侵され、外は五官や皮膚を傷る。このため、軽い場合でもすぐ重病になり、重症の場合は必ず死ぬ。ゆえにこれを神に祈っても治すことはできない、とある。

ではなぜ病気を変移させる必要があるのだろうか。こうは言っても私も浅鍼の術を用いないわけではない。医は意なり、鍼刺の方法を一種類に固定する必要はない。







また腹部のみに刺鍼して四肢には鍼を刺す必要はないという説などは、まさに井の中の蛙大海を知らざるの類にすぎない。

そもそも《内経》には、腹部の鍼のみを用いるなどという説はない。古人の鍼はもともと井・栄・兪・経・合を用いることを中心にしている。私の師は、「至妙は四肢にあり。」と言われている。

そもそも病気というものは五臓にあるに過ぎない。その五臓の経脉の気は、四肢に満ちて溢れているのである。

人体における父母は、心と肺である。その心肺は、横隔膜より上にある。生命はこの二臓を中心に営まれているのである。

にもかかわらず、腹部のみに刺鍼せよと言う者は、灸する場合でも腹部にのみ灸せよと言うのであろうか。考えのなんと浅いことであろう。







そうは言っても、私もやはり腹部にはいつも注目して治療している。

ある人が聞いた、「病気というものは樹木のようなもので、その枝葉は四肢に現われ、その根は腹部にあると思います。その根である腹部に処置すれば、枝葉である四肢の病気は自然に治っていくのではないでしょうか。」

私は答えた、「私の師がいつも言っておられたことをお話しましょう。腹部に注目してその根本を治療し、四肢に注目してその枝葉を治療する。このようにすれば、非常に種類が多く千変万化する病気であっても、必ず治っていくものです。樹木に例えるとよく判ると思いますが、大木の場合、その根を切ったとしても枝葉はまだみずみずしく生きている場合があるでしょう。根が無くなっているのでいずれは枯れていく運命にはあるのですが、完全に枯れきるまでの間は、やはり元気を害していくではありませんか。そのため、私の師は、その根である腹部を治療し、さらにその枝葉をも治療していくのです。このようにするので、大病であっても速やかに治っていくわけです。鍼に補法なしとよく言いますけれども、病気を速やかに治していけば、元気も自然に旺盛になるものです。」

また私は言った、「腕が未熟な医者は、こういった標本関係を理解していないため、四肢を本として治療して腹部を標としたり、腹部を本として治療して四肢を標とするものがいるのです。どうしてこのように一概に決めていってしまうことができるのでしょうか。」

私もまた腹を分ち、このことを同志に語ろうと思う。







一元流
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