顔面診





顔は全身の気血が集まる部位です。

《霊枢・邪気臓腑病形》に、顔は服を着なくとも寒さに耐えられるのはどうしてなのでしょうか、という黄帝の問いに岐伯が答えて、『十二経脉、三百六十五絡の血気はすべて顔に上り空竅に走ります。その精陽の気〔注:五臓六腑の精気〕は上に目に走ってよく見えるようにします。その別の気は耳に走ってよく聴こえるようにします。その宗気は上って鼻に出て、よく匂えるようにします。その濁気は胃に出、唇や舌に走って、よく味わえるようにします。その気の津液はすべて上って顔を薫蒸します。そのため顔の皮膚は厚く筋肉も丈夫なので、天気の寒冷も、これに勝つことはできないのです。』とあります。

現代中医の《黄帝内経霊枢校注語釈》では、これに解釈を加え、『顔面は陽熱が已に極まっているため、天気の寒冷も、これに勝つことはできないのです。』としています。

《難経・四七難》には、『人の頭は諸陽の会です。諸陰の脉は、皆な頚胸中に至って還ります。ただ諸陽の脉だけが、皆な上って頭に至ります。ですから顔面は寒に耐えることができるのです。』とあります。

しかし張景岳はその《類経》における注で、『頭が諸陽の会であるということはその通りですけれども、陰が頭に上らないというのは間違いです。』と、400年前にその誤りであることを指摘しています。

そもそも、陽気が充実している場所は陰気も充実していなければなりません。頭部を一つの小宇宙として考えるなら、髓海(脳)と頭蓋という大いなる陰気が存在しているために、顔面には陽気が集まることができると解釈すべきです。現代中医が言うように『陽熱が已に極まっている』のであれば、顔面は熱くて触れられないということになります。







それはともかく、頭部は大いなる陰と大いなる陽とが存在していて、きわめて充実した生命を持つ小宇宙を構成しているといえましょう。このため、非常に強い生命力がそこに現われることになり、気力を見るのに適した場所となっているわけです。

その方法や診方にはさまざまありますけれども、東洋医学では五臓を顔面に配当して診ます。凝り過ぎると占筮に走りかねないところです。見えればその理由を他の診察と合わせてよく考え、見えなければ横においておき、自身の心を揺らさないという姿勢が大切です。

ただ、眼神は誰にでも何かしら感じさせるものですから、そこから観ることを始めるというのはいい手でしょう。診察をしているときに目を瞑っているのは虚、目を見開いているのは実などという言葉もあります。

顔面診臓腑配当の図




ちなみに目は肝、舌は心、口は脾、鼻は肺、耳は腎の開竅する場所でもあります。

顔面に望診にあたっては、気色(色艶とその脱け方から生命力を診る)と、蒙色(漂い出ている曇り)を診ていきます。











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