臓腑経絡弁証は、身体を一元の気として把え、それが五臓を中心とした経絡の流れによって成り立っているという東洋医学の古典的な発想を継いでいるものです。その詳細については臓腑経絡のところを中心としてこれまで縷々述べてきました。ここではその一元化についてだけ触れておきます。
東洋医学は常に生命そのものを対象としてきました。その中から体表観察を通じて理論的にまとめあげられたものが臓腑経絡であると考えています。ただ、理論を作ってしまうとそれに頼り始め、理論が先走りしだします。理論が理論を生み難解で荘重な伽藍を作り出してしまうのです。
しかし我々はその装飾を一切剥ぎ取り、素の状態に立ち返って、目の前に生きて存在している患者さんの真の声を体表観察を通じて感じ取ろうと決意しました。いわば、体表観察学をここに復活させようとしているわけです。
そして、その過程で最も参考にするものが、東洋医学が歴代積み重ねてきた臓腑経絡学であるわけです。実際に体表観察を行って治療している者にとって、経絡が存在するということは、臓腑が存在するということと同じように直接触れることのできる事実として知ることができます。経穴もそうです。
けれどもそれが、歴史を経て伝えられてきたもの、そのとおりのものなのかどうかということは、明確ではありません。形として解剖の際に見ることのできる血管の位置でさえ、個体差が多くあるのが生命の世界です。それよりさらに繊細で微妙な世界を見ているのですから、個体差はより大きいと考えなければなりません。個別具体的な理解を積み重ねよう、と私が提唱している理由はここにあります。
さらに経穴の効能に関しては、それが実際的にどのような作用を全身に及ぼすのかということが患者さんそれぞれの体質によって異なってくるだけでなく、術者のそれぞれの技量〔注:弁証論治の能力・経穴の選択方法とその数・施術能力〕によって大きな違いが出てくるということを覚悟しなければなりません。
このような変動要因の非常に多い世界の只中にあって、それに棹差し、検証を重ねることのできる土台を作り、日々の臨床に役立てようとするのが、この一元流鍼灸術の存在意義です。
臓腑経絡弁証といっても、目的は分けるところにあるわけではありません。一元の気として存在している目の前の患者さんの、気の偏在、臓腑の厚薄を体表観察を通じて把握していくのです。そこから病因病理を流れとして把握し、治療を行います。この積み重ねを通じて、臓腑経絡学そのものを検証しようとしているわけです。
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