長沙腹診考

総論


腹候中心は千古の確論

病には非常に多くの種類がありますが、腹候を基準にすると見落としがありません。そのため、診察において腹候は、病毒の位置を知るための古来からの方法となっています。扁鵲が言うところの「病の所在を視る」というのがこれです。疾医たらんとするのであれば、この腹候を詳しく研究しなければなりません。ですから「腹候は治術の本、医たるの枢機」と述べられているのです。『医断』には、「腹は生の本、百病はここに根ざす」と述べられています。また『東洞遺稿』は、「先ず胸腹において病体を診察し、後に処方を定める」と述べられています。『遺書』には、「腹候において詳らかでなければ、処方してはいけない。」と述べられています。よく理解してください。

診察においては、先ず腹を候います。外症はその次にします。腹候が明確でなければ外症を明確にすることはできません。腹候は本であり、外症は末なのです。『論語』に、「君子は本において務めるものです。本が立つことによって道が生じます」と述べられています。『左伝』には、「物には本と末とがあり、事には終わりと始めとがあります」と、このように言われているのですから。

なぜこのことを強調するのかというと、腹症は同じでも外症は異なるものがあるためです。ですから「腹候は治術の本であり、〔訳注:腹診は〕医者の重要な技術です。疾病は毒によっておこります。毒は自らその象をあらわします。これを症と言います。症はまさに証です」と述べられているわけです。扁鵲は、「病の応は大表に現れる」と述べています。また仲景は、「症に随ってこれを治療しなさい」と述べています。これらは千古の確論〔訳注:はるか昔から正しいと確信されている理論〕であると言えるでしょう。


病は腹に根ざす遺伝病毒による

あらゆる病は腹に根ざしており、その変化は百出してきわまりありません。世の中で言うところの中風 癆瘵 癲疾は伝継されたもの〔訳注:遺伝的なもの〕であると考えています。

私は多くの腹症を候ってまいりましたが、これらの症に限らず、病というものはことごとくその血流に伝えられたものだと思います。病毒というものは父母の遺毒です。父母にその症があれば、その子孫にも必ずその症があります。身体髪膚〔訳注:この身体のすべて〕は父母から受けたものです。病毒だけは受け継がないということがありうるでしょうか。容貌 言語 毛髪 爪牙〔訳注:そうが:爪や歯〕に至るまで、父母に似ていないものはほとんどありません。

人身における病毒というものは一朝一夕にできあがったものではなく、その由来は非常に長いものなのです。病毒というものはこのように、百世にもわたって子孫に伝えられているものです。けれどもその病毒が除かれると、父母が無毒となりますので、その子孫はその病を患う〔訳注:連鎖から〕絶たれて、いつまでも長命となります。疾医〔訳注:内科疾患を治療する医者:食医・癰医・獣医とともに周代に設けられた:『周礼』〕の貴さは古くから、まさにここにあるわけです。

けれども腹候が明らかでなければ、未病を治すことはできません。『金匱要略』に「上工は未病を治す」と述べられているものがこれです。疾医たらんとするものはこのことをよく理解しなければなりません。

私は、兄弟で諸州を遊歴しながら、未病の腹症を候い、たくさんの治療を施してきました。たとえ養性の道〔訳注:養生〕を行なっていても、その病毒が除かれていなければ天年〔訳注:生まれながらの寿命〕を保つことは難しいものです。


我が家の腹診

わが家には腹診の方法が伝わっています。

病者は平らに、手足を伸ばして寝させます。

医者は病者の右に位置し、呼吸を病者と合わせて、静かに手を下します。

胸膈から心下 両脇腹 臍傍 少腹、さらには項背から腰や臗骨まで、全身すべてを診、少しでも手に障るものが有れば病毒と考えます。心を深く潜めて診ます。

手で診ることに熟練していなければ、隱微なものをすぐ理解することはできません。精神すべてを手頭に注いで、虚心実腹にして〔訳注:力を抜いて気を腹に納めて〕診ます。手で診ているのではなく、心に応ずるものを感じ取ります。口や耳は用いず、手と心とで研究します。これが腹診の秘訣です。

腹候というものは活術です。その妙処については、師も弟子に授けることはできませんし、親も子に伝えることはできません。ですからただ、規矩準縄〔訳注:基本的なやりかた〕に従って実物〔訳注:実際に生きて動いている身体〕で学んでいくしかありません。始めは自分の手中に響きがあって〔訳注:手の感覚の鈍さや思い込みによって手の感覚が惑わされるため〕候い難いものです。行住坐臥〔訳注:日々の生活の中で〕、いつも心を込めてこの術を練習していけば、目を用いなくとも明確に物を弁じ分け、厚薄堅婉〔訳注:こうはくけんえん:厚さや薄さ、硬さやしなやかさ〕が手に従い明らかとなります。荘周が「手に得、心に応ず」と述べているものがこれです。


腹診の正伝は東洞のみ

世に醇粋な〔訳注:じゅんすい:純粋〕腹診を伝えているものはありません。

私は始め、希声翁〔訳注:磯野弘道:1772年~1847年:腹診で名をなした:禊教の教組である井上正鐵の医学の師でもある〕に学びました。希声翁は岑翁〔訳注:岑少翁:1731年~1818年:吉益東洞の高弟で腹診に熟達していた:尾台榕堂の師でもある〕から教えを受けました。岑翁は直接東洞先生に教授されたそうです。今述べる腹診の術は、三先生の師弟相伝の正説であり、長い間経験を重ねて多くの発明があるものです。

けれども東洞翁が亡くなられて後、弟子たちがそれぞれ一家の説を立てたため、疾医の道がとうとう混乱してしまいました。

私は兄弟で諸国を長年の間訪ね歩き、始めに聞いた希声翁の説と照らし合わせて、同じものは取り、異なるものは捨てて、廃れていたものを継ぎ、遺されていたものをひろい、そのすべてを実際と照らし合わせました。そして弟と相談して、ここに腹候における一家の言を成すものです。

唐宋の諸家や、本邦の後藤〔訳注:後藤艮山〕香川〔訳注:香川修庵〕山脇〔訳注:山脇東洋〕といった豪傑も、その言は腹診にまでは及んでおりません。腹候を論じたのは東洞先生ただ一人と言わなければなりません。〔訳注:後藤艮山には「艮山腹診図説」があり、山脇東洋には「山脇東洋先生腹診法」があり、香川修庵の説は益田流腹診の図に引用がある〕


東洞門下の亜流

■村井琴山(1733~1815)

村井は、世に洞門の高弟と呼ばれていますけれども、腹診においては熟達していないところがあります。彼が著した『方極刪定』を見てみると、大陥胸湯に結胸を刪(けず)り、木防已湯に水腫を補い、その他、瀉心湯、大黄牡丹皮湯及び数方においてもその症候を作文しています。これらはすべて東洞の本意ではなく、方意〔訳注:処方の意味〕を失わしめるものです。ここにおいて村井が、腹診においても疎漏であると理解しました。

■中西惟忠(深斎:1724~1803)

中西惟忠も同門に出て、晩年一己の説をたて、『傷寒名数解』を著しています。その論に、『膈間は、病者の自覚するところであって、外候〔訳注:外部からの診察〕が及ぶところではありません。たとえば心中懊悩 心煩 心悸 胸満 結胸 胸脇苦満 気が上がり心を衝くといったものがこれです。』と述べています。この一章だけで、中西が診法を理解していないことがわかります。

■松浦耕介(不明)

泉州の松浦耕介は、洞門に学び腹症家と称しています。私は、京師で直接その門人に逢い、一日腹症を論じたとがあります。けれども臆断固陋〔訳注:おくだんころう:独断的で見識が狭く非常に頑固〕で、虚説妄誕〔訳注:きょせつもうたん:嘘やでっちあげ〕が多く、東洞伝授の説ではありませんでした。

■和田東郭(1744~1803)

和田東郭も洞門より出ています。けれども中年になって、轍〔訳注:てつ:わだち:治療方針〕を後世医流に改めました。ですから、その著す処の腹診は、信ずるに足りないものです。

■稲葉文礼

最近、江州の稲葉文礼は、清州を遊歴して『腹証奇覧』を著しています。けれども醇酔〔訳注:じゅんすい:純粋〕な古方ではありません。固陋の〔訳注:見識が狭く非常に頑固であるという〕問題からは逸れられません。


『傷寒論』は腹症第一の書

『傷寒論』は腹症第一の書です。腹候の伝を得ていなければこの書を読むことはできません。張氏〔訳注:仲景:『傷寒論』の著者〕の「症に隨ってこれを治療する」とは、病毒を指して述べているものです。腹候が詳らかでなければ、その病毒が、腹にあるのか 背にあるのか 胸にあるのか 腰にあるのかわかりません。同じ嘔であっても、胸満して嘔くもの、痞硬して嘔くもの、腹満して嘔くものがあります。病の本は腹にあります。腹診が明らかでなければ、外症も極めることはできません。



一元流
東洞流腹診 前ページ 次ページ