易水学派





易水学派は、河北省易州の人である張元素を代表とする医学流派です。張元素は、字を潔古といい、劉完素と同時代〔訳注:12世紀〕の人です。彼の学術思想は華佗の《中蔵経》における臓腑の寒熱虚実の病証から非常に大きな影響を受けています。そのため彼の制方用薬〔訳注:処方を作成し薬剤を用いる方法〕は臓腑の寒熱虚実の系統をよく考えることから発展しています。ですからこの学派の歴代の医家は、臓腑の病理をよく検討し、独自の体系をもった大医家となっています。またこの学派は特に臓腑の虚損の病理について深く研究しており、これがこの流派の主たる研究内容にまでなっています。









この易水学派を代表する医家は、李杲(りこう)・張介賓(ちょうかいひん)・薛立齊(せつりっさい)・李中梓(りちゅうし)・趙献可(ちょうけんか)の五大家です。

李杲は、字を明之といい、晩年には東垣(とうえん)老人と号しました。宋金代〔訳注:1180年~1251年〕の真定【原注:河北省保定】の人です。その著書には《脾胃論》《内傷論》があり、『脾胃が損傷されることによって、あらゆる病が生ずる』と述べていました。さらに脾胃が損傷されることによっておこる主たる病変は、『清陽が下陥し、湿濁が流注し、陰火が上に乗ずる』ことであるとし、臨床的には気虚による発熱の症状にこの理論が多く反映されていると語りました。そして彼は「昇陽瀉火」「甘温除熱」という治療法を提唱して、労倦内傷による病に対して非常に効果的な治療法則を創立することになりました。

明代になると、山陰の張介賓〔訳注:張景岳:1563年~1640年〕・鄞県の趙献可は、腎と命門は水と火の関係であるという説を大いに唱えました。これは腎中の陰精を水と考え、命門の元陽を火と考えて、水火が相済していれば正常な状態を保っているけれども、水火どちらかが偏勝すると病変が起こるという説です。これはもともと王太僕(おうたいぼく)の、『水の主を壮んにさせることによって陽光を制する。火の源を益すことによって陰翳を消す。』という説を踏襲したものです。臨床的には趙献可は六味丸・八味丸を用いて壮水益火の神剤とし、張介賓は「左帰」「右帰」の二方を創製して、自ら「六味」「八味」よりも効果があるとし、ともに腎と命門の陰陽の虚損を治療する際に使用する方剤としました。

呉の人である薛立齊〔訳注:薛己(せつき):1486年~1558年〕・華亭の李中梓〔訳注:1588年~1655年〕は、腎と脾とを先天と後天として把えて立論しています。腎は先天の本であり、脾は後天の本であり、腎気丸と補中益気湯とをともに重視しました。脾腎の虚損に属すると思われるものに対して、その虚損を治療する目的でこれらの方剤を用いて、高い治療効果をあげていたわけです。

このように易水学派は、臓腑の寒熱虚実によっておこる病変を研究することから始まり、徐々に発展して腎・命門・脾・胃の虚損の病理についてその研究を発展させ、ついには温補学説の医学流派を形成するに至ったわけです。









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