河間学派





これは、中国河北省の河間に住んでいた劉完素を代表とする学派です。劉完素は金代の人〔訳注:1120年~1200年〕です。火熱病をうまく治療することによってその名を広めました。彼は《素問》を研究する中で、熱性の病が《素問》では特に重視されていると考えました。そのために《素問》の第三十一から《熱論》《刺熱論》《評熱病論》の三篇が続いて記載されており、第六十一には熱病に対する鍼刺法としての《水熱穴論》があると考えたのです。特に第七十四の《至真要大論》の中の有名な病機十九條の中では、火病と熱病について論じられている部分が半分近くの九条を占めていることから、これらを彼の臨床経験と結合させて火熱病に対する考え方を大いに発展させたのでした。

火熱とは、外来の六淫の邪であるか、その六淫の邪から化生してできたものです。劉完素は《素問・熱論》を参考にして、『3日に満たないものは発汗させればよいだけであり、3日以上経ったものは下せばよいだけである。』と説き、その理論に基づいて、表裏にしたがって弁証論治を組み立てていきました。つまり、火熱が表にあれば天水散・葱(豆支)湯等の辛涼剤あるいは甘寒剤で発汗させて治療し、火熱が裏にあれば三一承気湯で下して治療し、表裏ともに熱があれば防風通聖散・涼膈散で表裏をともに治療し、発汗後も病が治まらなければ黄連解毒湯・白虎湯等の苦寒・甘寒剤で清することによって治療するということです。火熱病を論治することを、理論から臨床に至るまで体系的に述べたものは、劉完素以前にはあまり見られませんでした。









劉完素の学問を伝えた偉大な医家が二人いました。その一人は張従正であり、もう一人は朱震亨(しゅしんきょう)です。しかし彼らは、劉完素の学問をそのまま伝承したわけではありません。

張従正は、字(あざな)を子和(しわ)と言い、戴人(たいじん)と号しました。宋金の時代の人〔訳注:1156年~1228年〕で河南省(目隹)州考城の人です。彼の論は「風は火によって化し、湿と燥とを兼ねる」という側面では劉河間の説と酷似していただけでなく、その応用に関しても劉河間の処方を応用したものでした。けれども彼は劉河間と同じことを語っていたわけではありません。病因について語る場合彼は必ずしも全てを「兼化」という言葉ではかたづけませんでした。また治法について語る場合も、病は邪によって生じ、汗・吐・下の三法を用いて邪を取り去るべきであるということは論じていますが、彼は特に吐法を重視しました。しかしこれは劉河間の常用した方法ではありませんでした。しかし張子和はこれをよく用いて、河間学派における攻邪論の側面を大成させたのです。

朱震亨〔訳注:朱丹渓〕は、字を彦修(さんしゅう)といい、西暦1281年~1358年まで生きていました。元代の義烏の人です。彼は羅知悌(らちてい)にしたがって学んでいる時に劉河間の書を読んで、「火熱論」についての啓示を受けています。その下で彼はまず湿熱病に着目し、これを淫邪に外患したものであると考え、「陽有余」という考え方の萌芽をここから徐々に構成していきました。ついで彼は李東垣の「陰火」の説に啓示を受けて、相火が妄動することによって賊邪となると考えました。これらの説を総合して彼は「陽有余、陰不足」という説を立てて、臨床的には「滋陰瀉火」の方法を多用することになります。ここにおいて劉河間の説は朱丹渓によって一変され、河間学派における滋陰論を形成することになるわけです。

このように、河間学派における火熱論・攻邪論・滋陰論の三大学説が展開されました。このようにして外感の病理は徐々に発展して内傷の病理と結合し、火熱による実邪を弁証論治するということから、陰虚による火亢を弁証論治するということにまで発展していったわけです。河間学派の医家は六淫の病理を研究していくことを通じて、大きな成果を得たわけです。









一元流
中医論文 前ページ 次ページ