まとめ





これまで述べてきた大学派は、それぞれ中国医学の発展に貢献しています。個々に異なった角度からその経験を総括し、多岐にわたる直観的な知識を積み重ね、それらを理性的な知識として構成しなおすことによって、中国医学の理論大系を豊かにし充実させました。









たとえば、河間学派と易水学派とは、ともに病変の起こる原因に着目しています。

その中で河間学派は六淫の病理に注目して研究をすすめ、火熱の問題にゆきあたりました。それによって当時蔓延していた火熱病に対する治療効果を高めただけでなく、後代の温熱学派の学問的な基礎を提供することになりました。

易水学派は臓腑の病理に注目して研究をすすめました。それは臓腑一般の虚損の問題についての研究から始まりましたが、後代になると徐々に専門的な課題についての研究がなされていきます。李東垣の「脾胃論」・趙献可の「命門説」・張介賓の「大宝論」がそれです。これによって臓腑に関する病理的な分析が非常に高度になされることになりました。









傷寒学派と温熱学派とは、弁証論治の研究に着目しました。

傷寒学派は、外感病の弁証を研究する中から徐々に内傷病の弁証にすすんでいきました。つまり、傷寒病の弁証をする中からそれは徐々に発展して、雑病の弁証をもすることになったわけです。彼らの弁証についての認識は非常に多方面にわたり、経脉からの認識・病邪の伝変からの認識・立法からの認識などにわたります。このように弁証についての認識が深まることによって、病理的な変化についての認識も非常に深くなりました。

温熱学派は、熱病に対する新たな考え方を示しました。それは、単純に表裏を分けて証を立てることから徐々に発展して、温熱の邪が募原にあるということを語り始めるまでになりました。これは単純な表と裏ではなく、より複雑に表と裏に分かれて伝わるということを表わしています。そこでさらに発展し、『衛の後方を気といい、営の後方を血という』、衛・気・営・血弁証となり、ついには三焦弁証が編み出されるまでになりました。このことによって熱性病に対する認識は、まったく新たに高度な地平を得ることになったのです。









これまで歴史的に見てきたとおり、医学という科学の発展が促進されていくためには、異なる学派による百家争鳴が、非常に重要な契機となります。このような歴史的経験は、数百の方針をさらによい方向へいかにして導いていくのかということ現在考えていく上で、大きな啓示を与えてくれるものです。我々も深く参考とするべきものがあると思います。









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