中医婦人科学の歴史





起源



紀元前16~11世紀の甲骨文字にすでに出産に関する記載があります。
紀元前11世紀《周易》に、不妊や流産に関する記載があります。
《山海経》には、不妊症を治す薬物についての記載 があります。






《黄帝内経》には、《素問・五蔵別論》に女子胞について、《素問・上古 天真論》に生理などの女子の発育についての生理的な記載があります。
病 理的な記載は、閉経について《素問・陰陽別論》《素問・腹中論》に、崩 漏について《素問・陰陽別論》《素問・痿論》に、その他《素問・骨空論》 には、帯下や不妊に関する記載があります。
診察法としては《霊枢・五色》 《霊枢・水脹》に記載があります。
その他、妊婦の服薬に対する注意事項 が《素問・六元正紀大論》に記載されています。


また、《史記・扁鵲倉公列伝》によると、春秋戦国時代の名医である扁鵲 は、邯鄲(かんたん)の都では婦人が大切にされていたので帯下医となっ たと著されています。

また、《漢書・芸文志》《隋書・経籍史》によれば、秦漢時代に《婦人嬰 児方》《范氏療婦人方》《徐文伯療婦人(疒+暇-日)》《療婦人産後雑 方》等の専門書があったことがうかがわれますが、惜しくもそれらは散逸 しています。

そのため、婦人科について専門的に論述している文章は、西暦219年、 張仲景の《金匱要略》に記載されているものが、現存するものではもっと も早いものとなります。

張仲景と同時期の華佗も婦人科についても詳しかったらしく、《後漢書・ 方術列伝》《三国志・方技伝》などにその事跡が記載されています。




魏晋南北朝



《脉経》では、《傷寒論》《金匱要略》の内容が整理され、その他、妊娠 時の脉についての記載もなされています。

また褚澄の《褚氏遺書》には晩婚の勧めが、徐之才の 《十月養胎方》には胎児の発育状況と妊娠時の注意および鍼灸の禁忌など が述べられています。




隋唐



巣元方の《諸病源候論》・孫思邈の《備急千金要方》・王燾の《外台 秘要》には婦人科についての専門の項目が設けられ、詳細に論じられてい ます。また、852年には《産宝》という産科の専門書も初めて書かれま した。




宋金元



宋代には医薬関係の管理が強化されて『太医局』が作られ、専門的に人材 が養成されました。『太医局』は九科に分けられていてその学生は三百人 にのぼりました。そのうち産科には十人があてられましたが、産科専門の 教授はいませんでした。けれども産科が設立されたことにより、産科の専 門書がこの時期に多数発行されています。そのうち有名なものには、《産 科宝慶集》《生家宝産科備要》《坤元是保》《十産論》等があります。け れどこれらの書物は妊娠出産方面に記載が限定されていまして、いわゆる 婦人科の病については一般の内科の中に包含されていました。

ところが1237年になると、陳自明によって《婦人大全良方》が著わさ れ、婦人科全般について詳細に記載された書物が登場しました。この書は 婦人科学の傑作であり後世に多大な影響を与えることになりましたが、現 在ではこの書を基礎にして校注が施された薛己の《校注婦人良方》の方が 一般に流伝しています。

この外、宋代には《聖恵方》《聖剤総録》《本事方》《三因方》《済生方》 等の方書が刊行されていますが、その中でも婦人科について専門的に論じ られています。このようにみてくると、婦人科学はまさに宋代になって飛 躍的な発展を遂げたと言えるでしょう。

金元時代になるといわゆる金元の四大家(劉河間・張子和・李東垣・朱丹 渓)によって学術論争が繰り広げられることになりますが、婦人科学にお いてもその論理の中で、それぞれの学派による独自の理論と治療法則が提 示されることになります。




明清時代



明清時代になるとそれまでの理論によって蓄積された臨床経験がさらにま とめられ、婦人科学も非常に完成度の高いものとなります。この時期の婦 人科学の専門書で現存するものは優に百余種にのぼります。その代表的な ものは、明代では万全の《万氏女科》・王肯堂の《女科証治準縄》・武之 望の《済陰綱目》・張景岳の《景岳全書・婦人規》があり、清代では伝山 の《伝青主女科》・肖賡の《女科経綸》・沈尭封の《女科輯要》・ 沈金鰲の《婦科玉尺》・陳修園の《女科要旨》などがあります。 また妊娠出産に関する専門書もこの時代、九十種以上が発刊されました。









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