臓腑の陰陽関係は、六臓と六腑との経絡を通じた結びつきの中から出ています。
臓腑という単独の場としてではなく、全身を構成している経絡とそれを発生させる内的な機構としての臓腑との密接な関係が前提としてあり、おのおのの臓に対応する腑が設定されているものです。それは以下のような対応関係となります。
肺 ・脾→ 心 ・腎 →心包・肝
↓ ↑ ↓ ↑ ↓ ↑
大腸→胃・小腸→膀胱・三焦→胆
中焦から語り始められた一つの経脉が、矢印の通りに流れて中焦に到り、ふたたび始まり、生きている限り終わらない流れを形作っているということが、《霊枢・経脉》に記載されています。
なぜ中焦から始まり中焦に終わるという形となったのかということに関しては《霊枢・営衛生会》で、『人は気を飲食物からうけとります。飲食物は胃に入り、肺に伝わって、五臓六腑すべてがその気をうけることになります。』と岐伯が答えています。
すなわち飲食物より取り入れられた生命力〔注:後天の気〕の流れが、その通過する臓腑によって表情を変え、肺経・大腸経などと名づけられ、またその気血の状態に従って、太陰・陽明などの形容詞がつけられることになったわけです。これがすなわち、手太陰肺経・手陽明大腸経・足陽明胃経・足太陰脾経・手少陰心経・手太陽小腸経・足太陽膀胱経・足少陰腎経・手厥陰心包経・手少陽三焦経・足少陽胆経・足厥陰肝経です。
体内を一本の川が流れていて、それが周辺の筋肉や骨や皮膚などを滋養しているものとそのまま把えるのか、身体を構成する一元の気を、六臓六腑の生命力として一応このように表現しているにすぎないと把えるのか。この観点の違いが東洋医学的な身体観において大きな懸隔をもたらします。
前者は、中焦から出る一つの流れの中で身体を把握しようとします。臓腑を経過する過程でその表情が変化して、それぞれの名称を与えられた経脉が構成されます。その経脉上に存在する経穴を治療や診断に用いていこうとするわけです。そしてこの流れる方向を頭に入れておくことが、治療における補瀉にもつながってくると考えます。
後者はこれに対して、一元の気によって構成されている身体を五行の概念を用いていっきに解釈しようとします。経脉の流注に述べられている六臓六腑の流れを、五臓に集約させて整理しようとするわけです。六腑という陽は、六臓の陽的な表現であり、六臓のうち心包は、心の外衛(心の外側でこれを守っている外壁)と考えられますので、これを五臓に集約していくわけです。
臓腑の陰陽関係を、個々の臓と個々の腑との陰陽関係として考える場合は前者の考え方、臓と腑の陰陽関係として考える場合は後者の考え方に沿っていると言えます。
|
|