虚実篇





虚実とは、有余と不足のことである。

表裏の中に虚実が有り、気血の中に虚実が有り、臓腑の中に虚実が有り、陰陽の中にも虚実が有る。

外感病の多くは有余であり、内傷病の多くは不足である。

実は邪気の実を言い瀉法によって治療する。

虚は正気の虚を言い補法によって治療する。

虚実を理解しようとするものは、その根本がどこにあるのかを考えて、補瀉どちらを用いるのかをよく弁別しなければならない。

病状を判断する場合、実邪によるものかどうかということも当然重要であるが、元気の虚がどの程度であるのかということはさらに重要である。

ゆえに、病気の治療をしようとする場合、必ず先に元気の程度を察し、その後に疾病の邪の状態を診ていくべきである。

もし実証のものに誤って補法を施したとしても、それはその病状に隨って治療していけば救うことができるが、虚証のものに誤って瀉法を施せば、生死に関わってくるからである。







この虚実の要は脉にある。

脉が真に有力で真に神が有れば、これはまさに真の実証である。

脉に力が有るようにみえ神も有るようにみえるといった程度のものは仮の実証といえよう。

脉の力が少なく神も弱い程度のものはまだしも、脉が完全に無力で完全に神が無くなっているものなどは、その正気の虚が非常に甚だしいと言わねばならない。

臨証においてこの、脉と虚実との関係をおろそかにするようなことは、万に一つもあってはならないことである。









一、表実とは。

発熱し・身痛し・悪熱して衣服をはだけ・悪寒して鼓慄するものである。

寒が表を閉塞するものは無汗であり、火が表に盛なものは瘍が出てくる。

走注〔訳注:風痺の別名〕して紅く脹れ痛むものは、営衛に熱があると理解すべきである。

拘急して酸痛し疼痛するものは経絡に寒があると理解すべきである。




一、裏実とは。

脹痛・痞堅・閉結・喘満・懊悩して不寧・煩躁して不眠・気血積聚し結滞が腹中にできて散らず・寒邪や熱毒が深く臓腑の間に留まったものである。




一、陽実の場合は、熱が多く悪熱する。

陰実の場合は、結して痛み冷える。

気実の場合は、必ず呼吸喘促し声色は壮んで激しい。

血実の場合は、血が凝集するため痛み堅い。




一、心実のものは火が多くよく笑い、

肝実のものは両脇少腹が疼痛してよく怒る。

脾実のものは脹満気閉して身体が重い。

肺実のものは上焦に気が逆して咳喘する。

腎実のものは下焦が壅閉され痛み・脹感・熱感が二便に現われる。




一、表虚とは。

多汗・筋肉の戦慄・怯寒・目暗羞明・耳聾眩暈・肢体の麻木・きつい労働についていけない・毛髪が槁れ肌肉が痩せ・顔色が憔悴し神気は索然となるものである。




一、裏虚とは。

心怯心跳・驚惶・神魂が安まらず・津液が不足し・飢えて食べることができず・渇して冷を喜ばず・畏れて目を見張り・人の声に驚くものである。

上が虚すれば飲食を運化することができず、嘔悪し気虚による中満となる。

下が虚すれば二陰が流利することができず、便も尿も失禁し・肛門脱出し・泄瀉し・遺精する。

婦人の場合は血枯のために閉経となり、堕胎・崩・淋・帯濁等の症状を呈する。




一、陽虚とは火の虚である。

神気が不足し・眼黒く頭眩し・冷えが多いため寒邪を畏れる。

陰虚とは水の欠乏である。

亡血失血し・戴陽し・骨蒸労熱する。

気虚のものは、声が小さくて呼吸が促迫し息切れするため喘と似ている。

血虚のものは、皮膚が乾渋して筋脉が拘攣する。




一、心虚のものは、陽虚のためによく悲しむ。

肝虚のものは、目がはっきり見えず陰嚢が縮み筋肉が痙攣してよく恐れる。

脾虚のものは、四肢を用いにくく飲食物を消化しにくく腹部が痞満してよく憂う。

肺虚のものは、気が少く呼吸も微かで皮毛は乾燥しなめらかでなくなる。

腎虚のものは、二陰が通じにくく、両便を失禁したり遺精失精することが多い。また腰脊の異常によって俯仰できず、さらには骨痿し痿厥する。




一、痛みがあって、按ずることのできるものは虚であり、按ずることを拒むものは実である。




一、脹満の虚実について。

張仲景は、『腹満が減らず、たとえ減ってもそれほどでもないものは、これを下すべきである。腹満が時には減るがまた元の如くなるものは、これを寒とする。温薬を与うべきである。』と言っている。

腹満が減じても格別言うほどでもないものとは中満のきついものであり、腹満が減じないものと同様に実邪による腹満である。そのためこれを下すのである。

腹満が減じるときがあるということは、腹中にもともと実邪が無いということである。

時には腹満が減じるにも関わらずまた元に戻って腹満するものは、脾気の虚寒がその根底にあるのである。そのために温薬を与えるのである。

温という言葉の中には補という意味も兼ねられている。




一、《内経》の諸篇には神気について心をこめて語られている。

神気とは元気のことであり、元気がしっかりしていれば精神状態も非常に良い、これは当然のことである。

もし元気が少し虚すれば神気も少し虚し、元気が非常に虚すれば神気も非常に虚し、神気が去ってしまうとその人の生活機能も停止してしまう。非常に畏るべきものである。

《脉要精微論》に、『精明は、万物を視、黒白を別ち、長短を審らかにする所である。長を短とし白を黒とするような状態は、精の衰えを意味する。』

『もし話す声が低く力がなく話す内容も重複するようなものは,気奪である。

衣服を正しく着けることができず、言語が錯乱してその親密度によって使い分けることができない者は、神明が乱れているのである。

脾胃が食物を納めることができず大便を失禁するものは、その門戸がしっかりしていないからである。

尿を失禁するのは、膀胱がしっかりしていないからである。

五臓がしっかりしているものは生き、五臓がしっかりしていないものは死ぬ。五臓は身体の強健さの大本である。

頭は精明の府であり、頭を傾けて深く視るものは精神が奪せんとしている兆候である。

背中は胸中の府である。背中が曲り肩が垂れていくものは胸中の府が壊れかけているのである。

腰は腎の府である。転揺することができないものは腎が虚しきってしまったのである。

膝は脚の府である。屈伸することができず、歩いても前屈みになるような場合は骨が弱りきっているのである。

骨は髓の府である。長いこと立つことができず歩けばふらふらするものは骨が弱りきっているのである。

五臓が強ければ生き、五臓がその強さを失えば死す。』とある。

この《内経》の言葉は虚証について言っているのであるが、その意味を深く理解しなければならない。




一、虚は補い実は瀉す、と言葉で言うと非常に解り易い。しかし実の中に虚があり虚の中に実が有ることは意外と知られていないのである。

いつも思っていることだが、虚が極まった病気であるのに反って勢いが盛に見えたり、実が強い病気であるのに反ってやせ衰えて見えたりすることがある。このあたりのことをしっかりと弁証していかなければならない。

たとえば、七情の過不足・飢飽・労倦・酒食に傷れ・先天の不足によって起こる病気の中には、身熱便閉・戴陽脹満・虚狂仮斑等の症状が非常に多く見られる。

これは有余の病であるかのように見えるのだが、その真実の原因は不足によるものなのである。その真の原因を察することのできない医者は、これを瀉し、無実の患者を殺してしまうことになる。

またたとえば、外感の邪が取りきれずに経絡に留伏し・飲食の滞りが消えずに臓腑に積聚し・散らして消すことのできない鬱結や逆気が有り・頑痰や・血が留蔵されている場合、その病程が長くなるとやせ衰えてくる。

これは不足の病に似ているけれども、病気の原因が未だ除かれていないのである。このような場合はどのようにやせ衰えて見えようとも、その原因である実邪を取らなければならない。しかし、その実邪をとらなければいけないことが解らない医者が、もし誤って補法を用いて治療するならば、その邪気をますます強くしてしまうこととなる。

これがよく言われる所の、『実を実せしむることなく、虚を虚せしむることなかれ』の意味である。

不足を瀉し有余を補うといった治療によって死んだ患者は、医者がこれを殺したのである。






附 《虚実大要論》



華元化〔訳注:華佗〕の《虚実大要論》には以下のように述べられている。

『病には、臓虚臓実・腑虚腑実・上虚上実・下虚下実などの種類があり、その症状も各々異なっている。深く考えていかなければならない。






腸鳴気走・足冷手寒・食胃に入らず・時間に関係なく嘔吐上逆し・皮毛憔悴し・肌肉皺皴し・目昏耳塞し・語声破散し・歩いたり動いたりすることによって喘促し・精神状態もしっかりしていないものは、五臓の虚によるものである。

その脉を診ると、指を挙げた浮位では滑、これを按じた沈位では微である。その異常がどの部位にあるのかをみれば、どの臓が虚しているのかを知ることができる。またこれを按じた沈位において、沈・小・微・弱・短・渋・軟・濡といった脉状を示すものは臓の虚を意味する。

飲食過多・大小便難・胸膈満悶・肢節疼痛・身体沈重・頭目悶眩・唇口腫脹・咽喉閉塞・腸中気急・皮肉不仁・急に喘乏を生じ・時々悪寒や発熱をし・瘡疽がともに生じ・悲喜の感情が時に来る、また自から痿弱し・自から高強し・気が舒暢しにくく・血も流通しにくいものは、臓の実である。

その脉を診て、浮沈ともに盛なものは実である。また長・浮・数・疾・洪・緊・弦・大といった脉状を示すものは全て実である。

その異常がどの経にあるのかをみれば、どの臓が実しているのかを知ることができる。






頭疼目赤・皮熱骨寒・手足舒緩・血気壅塞・丹瘤さらに生じ・咽喉腫痛し・軽くこれを按じて痛み・重くこれを按じて気持ちよい・飲食には異常が出ていないといったものは、腑の実である。

その脉を診て、浮いて実大の脉状を示すものがこれである。

皮膚掻痒・肌肉・脹し・飲食化せず・下痢が止まらず、

その脉を診ると軽く按じて滑を重く按じて平を得るものは、腑の虚である。

その異常がどの経にあるかを見て、急いで治療しなければならない。






胸膈痞満して・頭目割れるように痛み・飲食下らず・脳項が昏重し・咽喉が不利・涕唾が粘稠なものの、

脉を診て、左右の寸口が沈・結・実・大といった脉状を示すものは、上実である。

頬が赤く心驚き・挙動時に顫慄し・語声は嘶嗄・唇焦げ口乾き・喘乏するに力無く・顔色が悪く・頤頷が腫満するものの、

左右の寸脉を診て弱・微といった脉状を示すものは、上虚である。






大小便が出難く・飲食には異常がなく・腰脚は沈み重く・臍腹が疼痛するものの、

左右の尺中を診て伏脉で・るものは、下実である。

大小便が出難く・飲食は進退し・腰脚が沈み重く・いつも水中に坐っているような感じで・歩いたり動いたりすることが困難で・気が上奔して衝き・眠っているとき危険な夢を見るものの、

左右の尺中を診て滑脉で渋るものは、下虚である。

そういった病人が微・渋・短・小といった脉状を示す場合は全て下虚に属する。』






一、本篇だけでは虚実の症状がまだ展開され尽していない。詳しくはまた虚損門に載せてあるので、両方合わせて考察されるとよいだろう。








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