四、便を問う





二便は全身の門戸である。

内傷外感の別なくよくこれを観察し、その寒熱虚実を弁別しなければならない。

前陰は尿道から膀胱に通ずる。尿の出方の良し悪し・熱の有無によってその気化の強弱を弁別する。

たとえば傷寒病に罹っても尿の出がよいものは、太陽経の気がまだ困窮していないことを示す吉兆である。

後陰は大腸の門に開く。大便の通じの良し悪しや大便が結するかどうかによって陽明腑気の虚実を弁別する。

大便が熱結して腹中が堅く満ちる場合は、有余に属する。通じをつけるべきである。

もし最近通じがあり乾結がそうひどくない場合や、十日余り通じがないのに全く腹が脹ってこないものは、陽明の実邪ではない。

張仲景は、『大便が先ず硬く後に溏すものは攻めてはいけない。』と言っている。後に軟便となるものは、最初硬くとも実熱ではないのである。

まして毎日最初から軟便が出るものは、推して知るべきである。

もし堅燥や痞満等の症状が確実にはないのであれば、これは実邪によるものではない。攻めていけないのは当然である。









一、尿の色が黄色いということだけを見て火邪があると言う人がいるが、そのような人は労倦によって尿が黄色くなるを知らないのである。

思慮が過度になると尿も黄色くなり、節度なく下痢する場合も尿は黄色くなり、酒色によって陰液が傷られても尿はまた黄色くなる。

もし排尿困難や排尿痛がありその上に熱証を兼ねているのでなければ、尿が黄色いことを根拠として火邪があるとしてはならない。

私は尿が出難くなって斃れる人を間近に数多く見てきた。

経に、『中気が不足すれば小便の状態が変化する』とある。この意味をよく理解しておかないといけない。

もし尿が透明でよく出るものは、裏邪がまだ激しくなく、病気もまだ気分に入っていないことが解る。

津液は気によって化すのであるから、気が病めば尿も出難くなる。

尿が徐々に出易くなってくれば、気が津液を順調に化していると判断することができるので、吉兆として把えるのである。






一、大便は水穀の海に通じ、腸胃の門戸である。

小便は血気の海に通じ、衝任水道の門戸である。

二便は腎に主られ、腎はもともと元気の要である。

実邪が明確に現われていれば、通法や下法を考えなければならない。

明らかな徴候がなければ慎重に構え、誤って攻めるようなことがあってはならない。実邪の確証がないのに妄りに瀉剤を用いると、元気を取り去ってしまうことになる。

すなわち、邪が表にあるものは反って内の虚に乗じて深く入り込む。内が困窮することによって病気になっているものは、元気が泄らされることによってますます虚していくことになるのである。

ゆえに、不足によって病むものにはことに慎重に構え、強引に通じをつけるようなことをしてはいけない。

また最も喜ぶべきことは、尿が気によって自然に化して出ることである。

大便がやや硬くともまず良い。

営衛が既に調い自然に通達しようとしているのであれば、大腸の秘結が十日以上続いたとしてもどこに心配することがあろうか?

また反対に、下痢が続いて止まらないとすれば、虚弱者には非常に問題である。なにはともあれ先ず下痢を止めなければならない。








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