全書紀略



私の外祖父・張景岳公は、名を介賓、字を会卿という。

先代は四 川の綿竹県に在し、明初の軍功によって代々紹興の衛の指揮を、 卜室郡城会稽の東に授かる。

かれは生来賢く、読書においても章 句を粗末にせず、《六韜》《玉鈐》といった兵法書と軒岐の 学とを深く学んでいた。壮年になってから燕冀の間に遊び、幕府 の軍隊に従って楡林に出・碣石を歩き・鳳城を経て・鴨緑江を渡 り数年戦ったが戦功をあげることができず、親はますます老い家 はますます貧しくなったため翻然として帰った。

功名や壮志は消 磨し尽し、捨て去っていた学問のうち軒岐の学に力を注ぎ、隠を 探り神を研ぎ、医は日に進み名は日に明かとなった。

その時代の 人は彼を張仲景・李東垣と比べて語ったそうである。

彼は苦心し て《内経》を編集し、深く研究し尽して類によってまとめて《類 経》若干を著して世に問うた。世はこれを重んじて金匱玉函とす ること久しい。






《全書》は、博く前人の精義を採り、経験に基づ いた心得の玄微を考え、自から一家の書と成っている。

首の《伝 忠録》は、陰陽六気における先賢の可否を統括して論じている。 凡そ三巻。

次の《脉診章》は、諸家の診法の精髄を択びそれによ って病状を推し量っている。凡そ二巻。

傷寒を典とし、雑證を謨 とし、婦人を規とし、小児を則とし、痘疹を詮とし、外科を鈐としている。 凡そ四十巻。

薬味三百種を採り、人参・附子・ 熟地黄・大黄を薬中の四維とし、さらに人参・熟地黄を良相とし、 大黄・附子を良将としている。凡そ二巻。

薬方を創り八陣に分け る。補・和・寒・熱・固・因・攻・散と呼び、新方八陣と名付け る。凡そ四十巻。古方を集め八陣に分け、古方八陣と名付ける。 凡そ八巻。

別に、婦人・小児・痘疹・外科の処方を集めている。 これらは全て古方八陣を基にした処方のうち、非常に効果のある ものについて語られている。凡そ四巻。

総計六十四巻で、これを 《景岳全書》と名付けている。この書は、伝統を継承し未来へ道 を開くことに、大いに貢献していると私は思う。






兵法における部 署と方略に対応させて古人は、薬を用いるのは兵を用いるような ものであるとしている。

景岳公は平生よく《六韜》《玉鈐》 といった兵法書について語ってが、結局はその若い頃から学んで いた学問と壮士の志を遂げることができなかった。そのため医学 の中でその五花八門の奇を発洩したのである。

私は思う、彼景岳 はその生来の抜きんでた才能によって、世を救い、医統の精を伝 え、造物の意義に接したのである。これは真に偉大なことではあ る。

この書が編纂された晩年は、彼には上梓させる力がすでにな く、父に授けた。父はそれを再び私、日蔚に授けた。






私は先人の遺志を継ぐことができるほどのものではないが、庚辰 の歳(1640年)にこの書を携えて広東に走り、伯魯公にこれ を告げた。

すると公は言われた、「この書は済世の慈航であり、 天下の宝である。天下にこれを示すべきである。」と。そして公 はその俸給を提供し、この書を版木にすることとなったのである。

これを公に見せてから数ヶ月後に彫り終えることができた。

不肖 は先人を慰謝することができ、外祖父も九原において心を安らか にしていることであろう。我が外祖父・張景岳が不朽であらんこ とを祈る。






外孫    林  日 蔚   跋






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