先天後天論





人は地に生じ、その命は天に懸かる。

人の命は天に制されるのである。

養うものはこれを培い、傾けるものはこれを覆す。

ここにおいて天の命は人に制されるのである。






天はもともと二種類あるわけではないので、そこには天の天といったものがある。

これを我を生ずる天といい、無から天が生ずるものがこれである。

そして、人の天といったものがある。

これを我を成す天といい、有から我が成立するものがこれである。

生ずるものが前にあり、成すものは後にある。

これによって先天後天の意味が生じるのである。






これに基づいて人の先天的な素質のことを語れば、

先天的に強厚な人は長生きのものが多く、

先天的に薄弱な人は短命なものが多い。

また持って生まれた先天的な素質を後天的にも培養していく人はますます長生きとなり、

持って生まれた先天的な素質を後天的に損傷していく人はますます短命となる。









たとえばいわゆる骨格は先天的なものであり、

肌肉は後天的なものである、

精神は先天的なものであり、

容貌は後天的なものである。






顔色の弁別法としては、

蒼は長生きであり妖しい色のものは短命である、

若々しさの中に蒼があるものは吉であり、

蒼の中に若々しさがあるものは凶である。






声音の弁別法としては、

充実しているものは長生きであり、

ビクビクと怯えた感じのするものは短命である。

声が細くとも息が長く続くものは吉であり、

声が強くとも息の短いものは凶である。






形体の弁別法としては、

堅いものは長生きであり

脆いものは短命である。

身体はやせ衰えた感じでも動作に不自由のないものは吉であり、

身体は強盛な感じでも精神的に困窮し易いものは凶である。






動静の弁別法としては、

静かなものは長生きであり、

騒がしいものは短命である。

性急な感じでもその中に和があるものは吉であり、

静かで陽が厚い感じがしてもその中の陰気が薄いものは凶である。






少長の弁別法によると、

幼少期には身体が弱くとも成長するに従ってしっかりしてくるものは晩成する徴候である。






気質の弁別法によると、

若い頃華麗であってもあまりに早く充実しきってしまうものは早く衰える兆候である。






もし、先天的にも後天的にも充実しているなら、長寿を迎えることができることは疑いない。

もし先天的にも後天的にも養われなければ早死にし、長寿を得ることができない。









養生ということから考えるなら、

先天的に強くともそれに頼って無理をするとその強さを失う。

また後天の弱いものは慎みを知ることによってその弱さを克服することができる。






慎みとはどういうことかと言うと、

情志を安定させ心神を安定した状態に保ち、

寒さ暑さから身を守って肺気を保護し、

酒食を慎んで肝腎を損傷しないようにし、

労倦や飲食を節制して脾胃を養っていくということである。

楽しみをただ養生することに置き、善を行なうことを楽しみ、生命を保つことを最高の幸福とするのである。






また、幸福を祈るのであれば絶対に天を欺いてはいけない。

このようにして表裏ともに欠けるところがないように生活すれば、邪気や疾病はその人を侵すことができない。

このように生活するなら、先天の力も後天の力も自分自身でコントロールすることができるのである。

広成子は、「ゆえに、なんじの肉体を労することなく、なんじの精を揺らすことがなければ、長生きをすることができる。」と言っているが、まさにその通りである。

慎みを知ることが簡単であるからといって、決してこれを軽んじてはいけない。









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