天年論





人間が生を得て、天から受けるものは全ての局面にわたっている。

これを天年と言う。

私は以前岐伯が、

『上古のその道を知る人は、陰陽に法り・術数に和し・飲食に節度が有り・起居に常度が有り・労働をしすぎることがない。

そのため形と神とのバランスがうまく取れ、その天年を全うして、百歳をメドにして他界する。』

と言っているのを聞いたことがある。

また老子が、

『人間には、長生きをする者が十人に三人あり、短命の者が十人に三人あり、生地を捨てて死地にあえて行く者が十人に三人ある。』

と言っているのを聞いたことがある。






私はこれらの言を基に、以下のように理解している。

先天というものがどういうものであるかを知っていても、それを現実に発揮することができないものは、天年を全うすることができない。

先天を発揮する元である後天を養うのはそれぞれの個人であり、天年を全うしたければ養生家たらんとしなければならない。

そしていつも養生に深く思いを寄せてでき得る限りのことを実践し、老子の言うところの、『長生きをする者が十人に三人』の内に入らねばならない。

しかしこれもその大約を言っているだけのことなので、本当は全ての人々にこのことを言わねばならない。

そのため、ここにその全てを著してみたい。









人間は大地に生まれ、その使命は天によって規定されている。

人間は天地によって生じ、天地によって死んでいくのである。






天が人に対して及ぼす災いには、時期外れの寒暑や頻繁におこる災害に吉凶の交流が加わり、百六の避け難いことが生ずることなどが挙げられる。

これを天刑と言う。






地が人に対して及ぼす災いには、乾燥や湿気に一定の法則がなく水と火とが突然発生し陰毒が非常に強くなり人を侵すことがあり、また危険が多くてよく困窮して斃れることが挙げられる。

これを地殺と言う。






人が人に対して及ぼす災いには、闘争によって傷つき・武器によって殺しあい・陰謀によって陥れあい・騙しあったり強盗にあったりすることなどが挙げられる。

これを人禍と言う。






およそこの三者は、十中に約してその幾つかを去る。

この天人地の三種の災いの他に、自分で自分に対して災いをなしたためにいきいきと生きることができなくなっている場合が六種類ある。

それは何かと言うと、酒・食・財・気〔訳注:強情〕・功名の累・庸医の害がこれである。









酒によって害を受けるのは、米汁の甘さにとらわれ、麹蘖(きくばく)〔訳注:こうじ〕という性の烈しいものも嗜むためである。

酒がうまく吸収されて身につくと禍福を転じてさまざまな困難を避けることもできるが、摂り過ぎて生命力を損なうと人の見分けもつかなくなる。

酒が原因でなる病気には、

血が傷られて水となり、

肌肉が浸漬され鼓脹の状態となったものがあり、

また湿邪が土を侵して飲食物の清濁を弁別できずに瀉痢の状態となったものがあり、

また血が筋を養うことができず筋肉が弛緩したり拘攣したりし甚だしい場合には眩暈や卒倒をおこして中風の状態となるものがあり、

また水が溢れて涎となり腹部が満悶して食欲がなくなり甚だしい場合は脾気が傷られ嘔いたり喘いだりして痰飲の状態になるものがある。






飲酒に耽って節制することがなければ、その精髄が本来強靭であったとしても長期にわたる不摂生に堪えられようはずがない。

その陰血は日に日に散じ亡びていき、中年の声を聞く前にさまざまな病気となり、生命を危うくするものがどれほど多いことか、私は知らない。









色慾によって害を受けるものは、ただ嬌艶なものを愛らしく思っているのだが、傾国の説のもつ意味や、伐命の説を理解することができないのである。

色慾が原因となって病気となるものは、

労損となり・

穢悪に染まり・

互いに相手を思いやるという心を失い・

思いを欝結させてそこに生命を注ぎ込む。

色慾が原因で命を落すものもあり・

心を卑しくして覗き見たり・

奪いあったり・

淫蕩が亢じて行方知れずとなったり・

驚いたり(おど)したりして胆力を(うしな)っていく。

これらは皆な、好色の人々が淫慾に溺れることが多く、楽しみに我を忘れ、自分の身体や家を顧みることができなくなっているのである。






どちらが実が少なく花が多いのかをよく考え、〔訳注:色慾を〕素晴らしい贈り物として楽しみ、徳の力によって色慾に勝ち、近づいても邪とならないようコントロールしなければならない。

色慾に対して貪欲であったり恋焦がれることがなければ、災いを招いたり色慾に傷られることはないのである。

この色慾によって災いを被ったものがどれほど多いことか、私は知らない。









蓄財によって害を受けるものは、ただ財産で生命を養うことができるという面のみを見て、財産の人に与える害を理解していないのである。

吝嗇(りんしょく)な人〔訳注:異常なほどの節約家〕は、そのためにいつも非難を招き、

集めた財産をただ漫然と倉庫に納めているものは、盗賊を自ら招いているので気の休まることがなく、その力の多くをその防衛に費やしていくことになる。

財産を集めることに貪欲で飽くことがなく、その身心を忘れて利益を追って義を省みることがなく、骨肉全てがこのために傷られ、膏血の全てをここにに注ぎ込みながら、怨みをかい人生を危うくしていくのである。

財産というものは本来は神に通じており、その財産が少なくなることを拒んでどんどん蓄財し続ければ、最後には財産が金の精となって祟りはじめることになる。

その周りには争いがおこり中身のない災いが生ずることになる。

このように、利益を得ようとして反って災いを被ったものがどれほど多いことか、私は知らない。









その強情によって害を受けるものは、血気が強いことを頼りとして、他人が自分を負かす事ができないのを誇りにし、驕りや(ほこ)りとまではいかないが勝つことを好み、いつも心に平安がなく、結果的に争いがおこると、事の大小に関係なく怨恨を持つことに腐心する。

忿怒が肝脾を最も損なうものであることも意に介さないのである。

その忿怒によって

隔食し・

気が疼き・

疼痛し・

泄瀉し・

厥逆し・

暴脱する

等の病気に侵され、終にはその身を危うくするのである。

また争いあって終には訴訟をおこし、その趨勢が自分を卑汚することの方が有利であると考えると、その醜さが奴隷さえも凌ぐような状態であってもあえてそれを甘受するのである。

他人に辱めを受けるような場合は、先ずそれに抗い、わずかな忿怒であっても自ら進んで手放すことをしない。






寛容と少しの謙遜の心をもって一生道を譲り続けけたとしても、何か失うものがあるのだろうか。

どちらが得でどちらが失うものが多いだろうか。

どちらに知恵があり、どちらの方が愚かな行為なのだろうか。

意地を通していくと、ひどい場合は家は潰れ破産するに至り、身を滅ぼすことにもなりかねない。

小さな事を耐え忍ばなかったことを悔いてもすでにその時には手遅れになっているのである。






気には本来形はない。

どのような状況の中にあっても、その状況を受け入れていけば、特別なことが起こることはない。

その逆に、その状況に偏執すれば、さまざまなことが起こってくるのである。

過去の歴史をよく振り返ってみれば、誰が正しく誰が間違っているなどということを、簡単に言うことはできないことが判る。

達観することによってそれぞれの状況に対して自から策を立てることができなければ、自分の身体が他人からの直接間接の怨みを受けることを避けることができなくなる。

このように、自らの愚かさによって自らの寿命を縮めるものがどれほど多いことか、私は知らない。









功名心によって害を受けるものがある。

皆な功名を得たいと思い、全ての人に功名を得る時期が与えられている。

しかしすでに功名を得たものは、それが自分の器ではないのではないかと畏れ、

未だ功名を得ていないものは、一生浮かばれないのではないかという不安にさいなまれる。

今までの苦労を思いいたずらに高い望みを持つものがある。

今昔の栄枯の違いを思って腹が裂けるほどに悔いるものもある。

また焦思切心して奔走し力をつくし、栄華が重なって非常に豊かになるものもある。

過去を慨き今を味わうことなく、無意味なことに身を滅ぼして消息を知ることもできず、その気が抑圧されているものがどれほど多いことか、私は知らない。









医療によって害を受けるものがある。

病気になってから良い医者を探そうとするのは、凶荒となってからその年についての研究を始めるようなものである。

しかしそこにある思いは非常に大切なものであり、ないがしろにすることはできない。






医療の中にある神理は非常に微妙で、言葉としては語り難いものなので、天人の学と言ってもいいほどのものである。

人並みを越えて聡明でなければ、ここで言われる無声を聞き・無跡を見・幽玄なる場を直接窺いその状況を把えることはできない。

そのように聡明な人であって初めて医療というものを語ることができるのである。

医療というものは軽々しく語れるものではないし、〔訳注:また、もし語れたとしても〕ただそのさわりだけしか語ることができない。






しかしそのように聡明な人を得ることが難しければ、次善のものとして、神を知らなくともその形跡を知ることができる人を探すべきである。

このような人が現代では上医と言えるであろう。

現在はこのような医者でさえも得難い存在なのである。






これ以外のものであれば、ただ愚昧な者ばかりが八九割を占める。

庸医が多ければ人を殺すこともまた多い。

その寒熱を間違えて施し、虚実を誤認し、一匙の匙加減も判らない。

病気が治るか治らないかということは、その医者の能力によって決まってくるのであるが、医療によって苦しめられる者には、何がよい治療なのかを理解することができず、死んでも悟ることができないのである。






明公は当時の医者があまりにも誤治を施すことが多かったため、その心を非常に傷めていたのである。

造化の力が非常に大きいことから考えると、凡庸な人間がそれをたわむれに窺い知ることなどとうてい不可能である。

生命を托するということは非常に重要なことである。

物事を深く考えることのできないような軽薄な人間が、安易に関われることではないのだ。

しかしその非は、彼ら自身に帰することはできない。






かの《原病式》〔訳注:《素問玄機原病式》劉河間著:苦寒薬を多用す:後に一篇を設けて批判あり〕以来、祖述相伝が日に日に多くなり、その言に酔うものは醒めることがなく、その誤治によって死にいくものは語ることができない。

その元陰に対して、この害〔訳注:苦寒薬の害〕を受けるものは非常に多い。

このことを聞いてもその意味するところを真に理解していないならば、私の言を信じていないのと同じことである。









考えるに、先天的な制約として三あり、後天的な制約として六ある。

これらの淘汰を経てなお天年を全うすることができるものが、一体何人いるだろうか。

私はこのゆえに「老氏十の三を言うものは、蓋しまたそれを約言するのみ。」と言うのである。

再びこのことについてよく考えるならば、人生は真に痛哭すべきものでしかないであろう。

しかしいたずらに悲しんでみても何も益を得ることはできない。

どうすれば、人の身として天年を全うすることができるだろうか。

知恵のある者であれば明らかにすることができる部分が、必ずある。






先天的な制約としての前の三者でさえも、非常に多く現われることがある。

しかしこれらの中には避けることのできるものがあるし避けることのできないものもある。

これを天の声として聴くことも、できないことではない。

知恵のあるものは、まだ災いとしてふりかかる以前に、それを発見することができるものである。

天の声に従うことのできるものは天がこれを庇護し、

地の声に従うことのできるものは地がこれを庇護し、

人を味方に得ることのできるものは人がこれを庇護する。

この三種類の庇護を得ることができるものは、長寿の道を得ることができるであろう。

この三種類の庇護を失うものは、長寿の道を失うであろう。

人の道において、近道となるものはないのである。






後天的な制約としての後の六者は、完全に自分自身の努力にかかっている。

酒による苦しみは避けることができる。

我々は酒に酔わないことができるのである。

色慾による苦しみは避けることができる。

我々は色慾に迷わないでいることができるのである。

蓄財による苦しみは避けることができる。

我々は貪欲にならずにすますことができるのである。

強情による苦しみは避けることができる。

我々は真理を看破して自分本意の真理に把われないでいることができるのである。

功名を求めることによる苦しみを避けることができる。

我々はもともと素質として備わっていることを行なうことができるのである。

庸医による医療に苦しめられることから遠ざかることができる。

事前によく調べておけばよいのである。






このようにして善を培い、欺くことなく生き、極端なことを行なわないように己の分を守り、刹那的な幸福を追求しないようにすれば、最も充実した人生を送ることができる。

孔子は、「(おも)うことなかれ、必とすることなかれ、固することなかれ、我につくことなかれ。」と言い、人々に無理なことをしないように教えている。

広成子は、「なんじの形を労することなかれ、なんじの精を揺らすことなかれ、すなわちもって長生すべし。」と言っている。

この中で形とあるのはその外面を言っているのであり、精とあるのはその内面を言っているのである。

内外ともに健全であることが、道を尽くすということである。

これらは全て、古の聖人が人々を憐れんで語った、至真至極の良方である。

大切に身につけるべきである。






ある人が私に言った、

「あなたの言うことは本当に正しいと思うのですけれども、何か回りくどい感じがします。

そのように複雑な知識がなくとも長寿を得る者がいるではありませんか。

どうしてこの小さな人間の力を借りる必要があるのでしょうか。」と。

私は答えて言った、

「ここで語ったことは、知恵のある人に対して語ったことであり、愚者に対して語ったものではありません。

けれども、私の論はあなたがおっしゃるとおり非常に回りくどいものです。

知恵のあまり無い人であっても、私の論についてよく考えて身につけることができれば、その天年を全うする一助となると思います。」と。









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