升陽散火弁





およそ火を治療する方法として升陽散火の方法がよいと語るものがあり、また滋陰降火の方法がよいと語るものがある。

そもそも火は一つであるから、升陽散火であっても滋陰降火であっても、どちらでも火を治療することはできる。

升陽散火は人体の陽気に注目して語っている言葉であり、滋陰降火は人体の陰気に注目して語っている言葉である。






それでは升陽散火と滋陰降火の方法を混用することはどうか。

理にもとることではないのだろうか。

どのようなものに対して升陽散火の法を用いるべきで、どのようなものに対して滋陰降火の法を用いるべきなのだろうか。

これを弁別して用いる方法があるだろうか。

これは古来より問題とされていた部分であり、古来より意見がまっぷたつに分かれているところである。

しかし今に至るも私は、これについて明確な解答を得たことがない。






火による病気には陰から発生するものがあり、陽から発生するものがある。

陰から発生するものは火が内部から生じたものであり、陽から発生するものは火が外部から入ってきたものである。

火が内部から発生したものは五内の火と言い、清降すべきものである。

火が外部から発生したものは風熱の火と言い、升散すべきものである。






現在の医家は火証を診る際、表裏を分けることがない。

そして必ず木火同気を語り、動ずれば風熱であると言って、升陽散火の法を用いることが多い。

ああ!その言は理に近いようでいてなんと遠いことか。

私の理論とどちらを非とすべきだろうか。

理を極めてもいないのに、混同を行なってよいものだろうか。









風熱の意味には二説ある。

風によって熱が生ずるものと、熱によって風が生ずるものとである。

風によって熱が生ずるものは、風寒が外に肌表を閉ざしたため、火は中に欝することになる。

これは外感によっておこった陽分にある火と言い、風を本とし火を標とする。

熱によって風が生ずるものは、熱が極まって陰を傷り、火が生じて外に出たものである。

これは内傷によっておこった陰分にある火と言い、火を本とし風を標とする。






経に、『病を治すには必ずその本を求む。』とある。

もし外感によっておこった火であれば、先ず風を治療すべきである。

風が散ずれば火も自然に治まる。

升陽散火の法を用い、滋陰降火の法は用いないのである。

内傷によって生じた火であれば、先ず火を治療すべきである。

火が治まれば風も自然に治まる。

滋陰降火の法を用い升陽散火の法は用いないのである。






もしこれに反して外感の邪であるのに滋陰降火の法を用いれば、閉ざされている肌表がますます固く閉ざされていく。

また内傷によって生じた火であるのに升陽散火の法を用いれば、その火が燎原の火のように広がっていくことになる。

内因によるものと外因によるものにはそれぞれ固有の脉証があるので、詳細に観察し、判別していけばよい。









方書を見ると、頭目・口歯・咽喉・臓腑など陰火の証の所見が見られるものを全て風熱によるものとし、升陽散火の法と滋陰降火の法とを併用し、また従治と逆治とを同時に行なうことが多い。

これで不安にならない者があるだろうか。

升と降とは互いに阻害しあい、従と逆とは互いに相手を忌むのではないのだろうか。






経には、

『高いものはこれを抑え低いものはこれを挙げ、寒はこれを熱し熱はこれを寒す。』とあり、

また、『内に生じた病気は、先ずその陰を治し後にその陽を治す、これに反すれば病ますます甚だし。

陽に生じた病気は、先ずその外を治し後にその内を治す、これに反すれば病ますます甚だし。』とある。

これは永遠に変ることのない真理である。

ゆえに私が処方を立てる際には、抑えるべきものであればそのまま滋陰降火の法を行ない、挙げるべきものであればそのまま升陽散火の法を行なう。

そのため効果が現われることが速く、いたずらに病気を長引かせることがない。

これは、ただその真実の病体を把握することが速いというだけのことである。






ところが最近の医者は軽い病を重くし重い病を危険な状態にまでもっていく。

そうこうするうちに年月を重ね、日に日に病状は重くなり、最後には救いようのない状態にまでなっていくのである。

このような事態に陥る理由は、両極端のものを弁別もせずに両方同時に用いようとするためなのではないだろうか。

明敏な者はこのことをよくよく深く考えていくべきである。









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