誤謬論





経に、『物事を推し図る方法にはいろいろあるけれども、道は一つである。この一つを詳細に知ることができれば、それによって死生を理解することができる。』という言葉がある。

これは道の本質は一つであり、その本質である「中」を押さえよという教えである。

天人の学は(すべ)てここを出ることはない。






医道も、生命を呼吸で判じ、禍福を指端によって決し、これによって人の生に関係していくのであるから、他の事に比べて重要であると言わなければならない。

医道が非常に重要なものであるということを理解したならば、見識はまだ多くなくとも、非常に慎重に構えて生命を危うくしないように注意すべきである。

まして医道についての法則を立て教えを述べるのであれば、絶対にいい加減なことを言うことはできないのである。

もし一言でも誤ちを言うことがあれば、必ず未来に災いを残すことになるからである。

一剤でも妄投するならば、人を非常に傷つけることになり、その誤謬を正さなければならないのであるから、いい加減なことを言ったらなおさら大変なことになる。






私はこの医道に従い、いつも往古の時代の軒岐(けんき)〔訳注:軒轅すなわち黄帝と岐伯の学問、つまりは《黄帝内経・素問》《黄帝内経・霊枢》〕の学を学んできた。

軒岐の学を明確に悟ることのできる者がこの何世代にもわたって出現していない。

しかしそのような中で真実を求める者は、必ず《素問》《霊枢》のみを参考にして人間を理解していこうとしてきたのである。

しかし、その数は多くはなかった。






また(ひそ)かに方論を相伝する者も出たが、大抵の場合は経意を失い経旨に違背し、断章してその意味を取り、数語を仮借してきてその一偏の詭説を飾ることに用いたのである。

至るところでこのようなことが行なわれてきた。

これらは全て単なるその場しのぎの意見にすぎなず、非常に不十分なものである。

彼らはまだ充分に理解しきっていない部分があったにもかかわらずその思惑を独断によって広げ、成功した治療についてのみ記載したため、医道の「中」を失いこの道の精一の義に大いに違うこととなったのである。

医道がこのような状態であるのに、人々に対してこれを施そうとする者は一体何に頼ったらよいのだろうか。






道の源は一つであり、理には二つないということを知らないのであろうか。

一源から万変に至り、万変は一源に帰すのである。

二から始まるなら必ず錯乱し、錯乱すればそこに矛盾が出てくる。

ゆえに言外に理があり、理の外にもまた言があるといった状況になるのである。

たとえば、理は実際にあるのだが言うことができないものは言外の理であり、

言うことはできるが行なうことはできないものは理外の言である。

しかし、本来、理以外に言があり得るのだろうか。明確には判断しきれない部分にいい加減なものを加え、真実を偽りとして否定して、大道の傍らに道を作るのである。






これに従う者もある。古くは楊墨〔訳注:楊朱と墨子:戦国時代、楊朱は極端な個人主義を唱え、墨子は極端な博愛主義を唱え、ともに極論として儒学者から批判されている。〕の異端であり現在では伝奇小説の類はこの理外の言ではないだろうか。

他人の言を借りると、思いが乱れることがないので強弁することができる。

強弁することによって、賢者も愚者もその言葉に固執するのである。






善を選んで固執するものを精一と言い、君子が時中すれば中を()ると言われているものが、賢者の固執である。

偽りを創って強弁し、変ったことを行なってそれに拘わり、道に反していることを理解できず、気持ちを柔軟に切り換えることができないのは愚者の固執である。

中を執るとは事態が道に外れていることを見て道を語らざるを得ざるようになったものであり、そこに利害の観念が入ることはない。

偽りを語り変ったことを行なう人は、人の長所を見てもその短所をあげつらい、心が狭いために成長がなく、肯定する姿勢のないままに終る。






千古の昔から是非邪正の論争がこのように行なわれているため、その論争自体が無意味になっているのである。

ましてただ類をもって類を知り、その状況に対応していくことは、そういった人々には極めて困難なこととなる。

そういった人々は、風変りなことを語っているので少し道理を知っているかのように見えるけれども、実は学もなく術もないため、よく治療することもできない。

皮毛を識っているだけで全ての脉絡を知っているわけではなく、常識的なレベルに留まるのであるなら、どうして満足することができるだろうか。






もし医が熱を見て寒を用い、寒を見て熱を用い、外感を見て発散を言い、脹満を見て消導を言う程度のものであるならば、誰でも努力することなく理解することができるではないか。

もし医がこれに止まるならば、どのような人間でも医の師範となることができる。

この上明哲なる者を貴ぶ必要などどこにあるだろうか。

ああ、賢者と愚者のなんと分かち難いものであろうか。










このように考えて私が医道の歴史を溯ってみたところ、金元時代以降現在まで中心とし規範としているのは、劉河間と朱丹渓であることにたどり着いた。

しかしこの両者であってもやはり偏見に執着している部分があるため、誤った説が盛に行なわれ遂にこの四百年間医道はその中庸を失ってきたのである。






もしここで、その一々について深く論じていくならば、道理を立てることが遅くなり、その流弊を止めることができなくなるであろう。

そのためここでは、とりあえずこの両者の条文の幾つかを取り上げ、それが道理と違うことを示していこうと思う。

安易に信を置くことのできないものが、このように多いのである。

人々にこの危険を伝え、少しでも危険の少ない道を将来のために残していきたい。

この言は死人に鞭打つ罪を作るけれども、後人のために甘んじて、その罪を私は受けよう。









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