丹渓を弁ず





以前、私は朱丹渓の、「陽は常に有余し陰は常に不足する」という論を読んだことがある。

それは、人の生気は常に有余し血は常に不足するという意味で、火を抑えることを治療の中心としたものであった。

その中で彼は、《内経》の、

『陽道実し、陰道虚す』

『陰虚至りて天気絶し、陽盛至りて地気不足す』

といった記載を根拠として、強引に自説を証明しようとしている。

このような方法は、《内経》の主旨に大きく背くものであり、生命についての認識を大いに誤り生命を大いに傷つける論である。






なぜかというと、そもそも人は天地の気を受けることによって生きているのであるから、生気が豊富であるということは陽気も豊富であるということであり、陽気が少ないということは生気もまた少ないということである。

誕生し成長し壮年となるためには、陽気が中心としてあり精血が化生されることが必要なのである。

つまり、陽気が盛であれば精血も盛になり生気も盛になるが、陽気が衰えれば精血も衰え生気も衰えるということである。

経に、『中焦が気を受け汁をとり、変化して赤くなるものを血という。』とあるが、これは血が気によって生ずることを言っているのである。






朱丹渓は精血の全てが陰に属することは知っていたので、「陰は常に不足する」と語ったけれども、精血を生ずるには先ず陽気がなければならないことを知らなかったのである。

精血が不足しているのに、陽気だけが有り余っているということがあり得るだろうか。

陽気が作られ難く虚し易いということを言わずに、陰気が作られ難く虚し易いということだけを、朱丹渓が言ったのはどうしてだろうか。

これは、精血という母はいるけれども、陽気という父がいない、と言っているようなものではないか。






彼はこのような発想の中から補陰等の処方を立て、陰を補うことができると言っているのだが、読者にはよく知っておいていただきたい、

黄蘗はただ降火することができるだけで陰を補うことなどできないのである。

もし黄蘗を陰を補うためと考えて使用するなら、その生気を傷めることによってその精血をますます消耗させていくことになるのである。

このような剤である黄蘗を、陰を補うものと語ることは、極めて大きな誤ちであると言わねばならない。






朱丹渓が自説の証明としている経文の内容をよく検討すれば、その誤りがどれほどのものであるか理解することができるだろう。

たとえば経に、『陽は天気であり、外を主る。陰は地気であり、内を主る。ゆえに陽道実し、陰道虚するなり。』とあるが、

これは太陰と陽明とを論ずる中で、脾と胃で病の生じ方が異なることを言っているのである。

つまり、陽明は表を主り太陰は裏を主り、賊風虚邪に犯された場合は陽がこれを受け邪気が六腑に入るため、外邪が表において有余となり、陽道が実するというのである。

飲食が不摂生だったり生活が不安定な場合は、陰がこれを受け五臓に影響を与え、五臓の気が傷られるため五臓が空虚となり、陰道が虚するのである。

これは本経に、『陽は外を主り陰は内を主る』とあることを、『陽の病は多くは実し陰の病は多くは虚す』と解釈しているのであって、天地和平の陰陽に対して、陽は常に有余し陰は常に不足すると言っているわけではないのである。

にもかかわらず朱丹渓は、これによって自説を強引に証明しようとして大きな誤りを犯しているのである。






また経に、『陰虚に至らば天気絶す。陽盛に至らば地気不足す。』とあるが、これは陰陽の盛衰について論じ陰陽否隔の病について語っているのである。

つまり、陰が下に虚すれば陰気が升ることができず、下から陰気が升らなければ上からもまた陽気が下らなくなるが、これを『陰虚に至らば天気絶す』と言っているのである。

陽が上に盛になり過ぎて陽気が降らず、上より陽気が降らなければ下からも陰気が升らなくなるが、これを『陽盛に至らば地気不足す』と言っているのである。

これは上下の陰陽の気が交流し難い状態のことを語っているのであって、陽気が常に有余し陰気が常に不足するということを言っているのではない。

後の句は無理をすればこのような解釈ができないでもないが、前の句の『陰虚に至らば天気絶す』という言はどのように解すればよいのだろうか。

ここに誤ちがあるのである。

朱丹渓の博学をもってしても、いい加減に引用するならば、このような誤ちをなすことになるのである。

もともと偏執している自分に拘っていると、このように強引な言辞が出てくるのである。






私は愚かで自覚がないけれども、道に対して真剣であろうと思っているので、朱丹渓がいかに過去の偉人であったとしてもここにその非を正さずにはおれないのである。

高明なる人物の批判をお待ちする。










一、朱丹渓の相火の論には次のように語られている。

五行それぞれについてその性質は一つであるが、火にだけは二種類ある。

その一つは君火である人火であり、もう一つは相火である天火である。

そもそも火は、内は陰で外は陽で動を主る、ゆえに動くものは全て火に属すると言える。

天は物を生ずることを主り常に動き、人はこの天によって生じ常に動いている。

このように常に動くものの基は全て相火にあるのだ。

ゆえに人が知覚を得てからは、五志の火がものに感じて必ず動き、いわゆる《内経》の五火となり、相火が起こり易くなって、五性における厥陽の火が互いに煽り立てて妄動することになる。

そのため邪火が発生し、その変化を予測できないほどになって、常時真陰を消耗させることになる。

このように真陰が虚すれば病み、真陰が無くなれば死ぬのである。






朱丹渓のこの論に従えば、火病を明確にすることができなければ、彼の補陰の説を明確に位置づけることができないかのようである。

彼のこの説を浅い観点から見れば理にかなっているようにも見え、火が当然人を動じ易いものと思えるのだが、深く彼の論を味わってみれば、意識というものが全て幻であるかのように語られているのが判る。

これは人々を大いに誤たせるものといわねばならない。

私はこれからこのあたりのことを詳しく解き明かし、後人の惑いを解こうと思う。




そもそも、一元なるものが最初に始まり、陰陽の両儀がこれに継いでおこり、動静が初めてここに現われる。

ここにおいて、陽は動を主り陰は静を主り、両儀それぞれがその位を定めることになる。

五行は陰陽に従って流布していくため、五行それぞれに中心となる気質が現われる。

それが、火は熱を主り水は寒を主るということである。

このようにして、陰陽両儀の動静は五行の先天をなし、五行の本質となるのである。

また、五行の寒熱は陰陽両儀の後天をなし、五行の変化を現わすものとなるのである。




この先天と後天は、同時に語らなければならない場合もあり、また同時に語ることができない場合もある。

たとえば、火は本来、陽に属す。

ゆえに火を動くものとすることは当然であり、先天と後天とをこのように同時に語ることは可能である。

しかし、陽を元気の中心として語り火を病変の現われとして把え、動ずることは陽の変化であるからといってそれをそのまま病変とし、その全てが火に原因しているという具合に、先天と後天とを同時に語ることはすべきでない。




これを、天人を例にとって考えると、天行は健であるからと言って、天が動けばそのまま火が生ずると言うことはできないということである。

また、君子は自から強くして疲れることがないとあるからと言って、人が動けばそのまま火となるなどと言うことはできないということである。

天が動くことがなければ生機が止まり、人に動くことがなくなれば、生命がなくなっているからである。




また、火をそのまま動と言ってもいいものだろうか。

もし動くことを全て火によるとして、火は必ず取り去らなければならないと言うのであれば、生命もまた取り去らねばならないということになるのではないだろうか。

もし動くもの全てが火に属すると言い、火を邪気として排除するのであるなら、全く動かないものがよいとでも言うのであろうか。

陽を火とするというその言葉は似ているが、その理は全く異なっていのである。




このようなことを語っているので朱丹渓は、「陰虚すれば病み、陰絶すれば死ぬ」と言うのである。

私であればこれは、「陽虚すれば病み、陽脱すれば死ぬ」と言うところである。

これは非常に似ているように聞こえる言葉であるが、非常に大きな異なりがその奥にはあるのである。

深く考える者は、このことをよく理解しなければならない。




ある人がこのようなことを言った、

「あなたの言葉は正しいような気がするけれども、ただ朱丹渓の語りたかったことを充分理解していないから出る言葉なのではないでしょうか。

たとえば朱丹渓は、五臓のそれぞれに火があり、五志が激しくなればその火がその激しさに従って激しくなり、それによって真陰が傷られ陰が最終的に絶すれば死ぬと言っているのであって、五志が動けばすぐさま火が生じると言っているのではないではないですか。」と。

私は答えて言った、

「情欲の思いが亢じて火となる場合は、欲望がかなわなかったり欲望が大きすぎたりして相火を動かし疲労して癆瘵の病となるものがある。

けれども、五志が動けば全てが火を生ずるのかというと、そういうわけではない。

いわゆる五志とは、喜・怒・思・憂・恐である。

経に、『喜は心を傷り、怒は肝を傷り、思は脾を傷り、憂は肺を傷り、恐は腎を傷る。』とある。

五臓がすでに傷られているのであれば、五火は何によって起こるのだろうか。

また、『喜べばすなわち気散じ、怒ればすなわち気逆し、憂えればすなわち気閉じ、思えばすなわち気結し、恐れればすなわち気下る。』ともある。

この五者の性質が物に惑うということであるならば、動かないということがない。

この五志が動けば元気が消耗させられ、元気が消耗すればこのようになる。

このような〔訳注:五臓がすでに傷られている〕状態で、五火は何によって起こるのだろうか。




ゆえに経に、『五臓は精を蔵するを主る、傷るべからず。五臓を傷れば精を守ることができず陰虚となる。陰虚となれば気がなくなり、気がなくなれば死ぬ。』とあるのである。

ここに、臓は傷つけてはいけないものであり、気もまた傷つけてはいけないものである、と述べられていることに注目すべきである。

しかし私は、臓が傷られれば必ず火となる、ということは聞いたことがない。

そもそも火となるという限りは、必ず火証があるはずである。

火証もないのに五志が動くというただそれだけの観点から敷衍して火として語るのは、影を捉えて形とし天下の人々を愚弄するようなことではないだろうか。




また一般的に言って、五志によって人が傷られそれが極まれば、必ず戦慄を生じるものである。

何故かというと、元陽が固まらずに神気が守られなくなったために戦慄が起こるからである。

もしこれを劉河間に聞けば、『戦慄は必ず火によって生じる』と語るであろう。

どちらの方が正しいのだろうか。

五志と五臓との関係はこのようになっている。

いたずらに人々に痛みを生じさせないようにしようではないか!」と。










一、朱丹渓は《局方発揮》の中で語っている。

相火の外に臓腑厥陽の火や五志の動などがあり、そのそれぞれが原因となって火が起こる。

相火は、経に『一水二火の火に勝たず』と述べられていることであって、天によって造出される。

厥陽は、経に『一水五火の火に勝たず』と述べられていることであって、人の欲から出ている。

気は火炎に隨って升り、一旦升れば降ることがない。

どうすればこれを防ぐことができるだろうか。






そもそも経文における五火の説は、《解精微論》中に、厥病によって目が見えなくなったものについて語られているものである。

陽気が上に集まれば、陰気は下に集まり、陰陽が交わらないために厥となる。

本来、厥は逆の症状であるから、陽気が上に逆すれば火が降ることがなく、陰気が下に逆すれば水が升ることなく、水が升らなければ火はますます下らなくなり、目のわずかの陰精だけでは五臓の陽気の逆に勝つことができない。

このため、厥病を起こすと目が見え難くなるということを、ここでは単純に説明しているだけなのである。

火に五種類あって水に一種類しかないということを言っているわけではないのだ。




また二火の説についても、《逆調論》中で、身寒が甚だしいにも関わらず反って戦慄しないものを骨痺と名付けている。

その理由は、その人が本来的に腎気が他の臓気に較べて強く、内に湿気を蓄め易いため、腎陽が衰えて腎脂が枯れ髓が満たされなくなり寒がますます強くなって、骨を弱くするためであると述べられている。

さらに肝を一陽とし、心を二陽として、二臓両方ともに伏火があって、一水が二火に勝つことができないために、身体は冷えているにも関わらず戦慄することがないとしているのである。

これは単に骨痺の病について語っているのみであって、陽が常に有余するということを語っているのではない。




もしこの五火や二火という言葉に基づいて全てを火証とするならば、たとえば《従容論》中に、『二火は三水に勝たず』と示されていることはどう解釈していくのであろうか。

なぜ朱丹渓はこの論を引かないまま自論を立てようとするのであろうか。

このことを朱丹渓に聞くなら彼はなんと答えるだろうか。










一、朱丹渓が語っている。

気が有余であれば火となり、五臓それぞれに火がある。

五志が激しくなれば、火は五志に従って起こる。

もし諸寒によって病になれば、身体は必ず寒気に犯される。

口から冷えたものを摂取することによって寒の病となるのである。

諸火による病のように内から病むものではない。

そのため、寒によって気の病となるものは、十に一二も無いのである。






私はこの朱丹渓の論を読むごとに、非常に失望し溜息が出てくる。

寒によって気の病となるものが十に一二も無いなどと、何を根拠に語っているのであろうか。




気はもともと陽に属する。

陽が実すれば熱が出、陽が虚すれば冷えてくる。

経に、『気が実すれば熱し、気が虚すれば寒す』とあり、

また、『血気は温を喜び寒を悪み、寒があれば滞って流れ難くなり、温めれば消え去っていく。』とある、

この意味をよく理解するべきである。




最近の人は、はたして気実の者と気虚の者とどちらが多いのであろうか。

寒熱についてはどうだろう。

こういったことはいったいどうすれば証明できるだろう。

たとえば心気が虚すれば神が明らかではなくなり、

肺気が虚すれば治節が行なわれなくなり、

脾気が虚すれば飲食不振となり、

肝気が虚すれば魂が怯えて休まることがなく、

腎気が虚すれば陽道が衰え精が少なくなって志しも屈し、

胃気が虚すれば倉廩が乏しくなり、その影響が諸経に及ぶようになり、

三焦が虚すれば上焦・中焦・下焦、全てがその機能の失調に陥り、

命門が虚すれば精・気・神、全てその根差すところを失うことになる。

これら全てが気虚の徴候である。




気虚は同時に陽虚でもある。

陽気が虚すれば五臓が温められず、寒があるわけではないのに寒を生ずることになり、陽気が衰えたために羸痩(るいそう)虚憊(きょはい)することになるのである。

寒気に傷られたり寒食をした後にのみ始めて寒証であるとすることの根拠は、いったい何処にあるのだろうか。




そもそも病者が医者を貴ぶ理由は、医者というものが生気を大切にするということを知っているからである。

このことは医家にとって最も大切なことであるにも関わらず、朱丹渓はこれを全く理解することができず、深く考えもせずに、「気が有余となれば火となる」と語っているのである。

私はこれに対してこのような標語を作ってみた、

「気が不足すれば寒となる」と。

ここまで私の説を読んできて、是非を解することができない者があるだろうか。










一、朱丹渓は《格致余論》の中で語っている。

六気のうち湿熱によって病になるものは、十のうち八九におよぶ。






この説の通りに「湿熱によって病になるものが、十のうち八九におよぶ」のであるならば、これを治療するために用いる寒涼薬の割合もまた十のうち八九におよぶのは当然のことである。

しかしこれも全く大いなる誤りでしかない。




そもそも陰陽の道は本来的に平衡を保つようにできているものであって、寒が往けば暑が来るというように互いに勝復するものなのである。

もし朱丹渓が語るとおり熱に偏しているのであれば、気候は乱れ天道も混乱するはずである。

このゆえに軒轅(けんえん)〔訳注:黄帝〕が、「徳・化・政・令の動静と損益とはどのようなものであろうか」と聞いたとき、岐伯が答えて語ったのである、

「徳・化・政・令において災変がさらに重なることはありえません。

勝復し盛衰することが、一方に偏って多くなることはありません。

往来することの大小が、一方に偏って過ぎることはありません。

用としての升降も、互いに影響しあい無くなることはありません。

それぞれその動きにしたがって復していくものです。」と。

これは《気交変大論》の文である。

素晴らしい言葉ではないか。










一、朱丹渓はその《夏月伏陰論》で語っている。

もし夏期の暑い時期に妄りに温熱薬を服薬させれば、反って実を実せしめ虚を虚せしめることになる。

ある人が語った、「四月が純陽であることの方が理にかなっているのではないでしょうか。五月は一陰があり、六月には二陰があります。四月より陰冷が強くないのはどうしてなのでしょうか。」と。

私は答えて語った、「陰が地下にあって初めて動ずるのが六月なのです。四陽が地上に浮いてくれば、燔灼焚燎・流金爍石するではないですか。このどこに陰冷があると言えるでしょう。」と。






この朱丹渓の説に従うならば、夏期には寒涼薬のみを用いれば良いことになる。

もしその通りであるならなぜ帝が、

「寒薬を服して反って熱し、熱薬を服して反って寒することがあるのはなぜか。」と岐伯に聞いた時、

岐伯が、

「その旺気を治療するには、その気に反する方剤によって治療すべきだからです」と答えているのであろうか。




朱丹渓は、旺気を治療するということは知っているけれども、旺気を治療してはいけない場合があることを知らないのである。

春夏における温熱や秋冬における寒涼は、四時の旺気である。

また風・寒・暑・湿・火・燥は、六周の客気である。

ゆえに春夏に陰寒の令があり秋冬に温熱の時がある場合は、主気が足りないために客気が勝っている状態であると考えるのである。

いわゆる、歳気を必ず先に考えて、天和を伐ることを厳しく慎むということも、この考えによるものである。

朱丹渓は、主気があるということは知っているのに、なぜ客気が循環勝復することを知らないのだろうか。

これはその時期の気の令について語っているのであるが、

実際に人の血気陰陽を考えていくならば、

当然個々人それぞれに異なっているのであるから、

病になったときの表裏寒熱についても当然異なっているはずではないか。




もし夏期に陰証の病となった場合にも温熱薬を服用させないというなら、冬期に陽証の病となったときにも寒涼薬を服用させないということになる。

そのようなことをして人の生命を救うことができるのだろうか。

朱丹渓は暑い時期には寒涼薬を用いる方がよいということは知っているのに、なぜその時期の気候を捨てて証に従うということを知らないのであろうか。

彼の論じていることを見ると、夏期には温熱薬を服用させないとは言うけれども、冬期には寒涼薬を服用させないとは言わないのである。

ここに、彼朱丹渓がいたずらに火を恐れ火を中心として考えることからくる、発想法の限界が現われているのである。










一、朱丹渓はその《局方発揮》で語っている。

経に、「暴注下迫は全て熱に属す。」とあり、

また、「暴注は火に属す。」とあり、

また、「清白を下痢するものは寒に属す。」とある。




そもそも熱は君火の気であり、火は相火の気であり、寒は寒水の気である。

火熱に属するものは二種類あり、水寒に属するものは一種類である。

ゆえに瀉痢の証においては、熱に属するものが多く寒に属するものは少ないのである。

《局方》を詳しく調べると、この瀉痢を治療する場合に熱渋薬を中心として使用している。

もし清白便を下痢し寒証に属するものに対して用いるのならこうなるであろう。

経に、下迫とあるのは裏急後重のことである。

そもそも裏急後重は火に属し、相火が原因で生じるものである。

相火の熱毒は非常に強いので、このようなものに熱渋薬を服用させると必ず殺すことになるはずである。






ここで説かれている二火一水を瀉痢の原因とする考え方は、全く間違っている。

経に、『暴注下迫は全て熱に属する』とあるのは、急症の下痢で下に迫って注ぐように出るもののことを言うのであって、腸澼下痢のことではない。

《太陰陽明論》には、『陰がこれを受ければ五臓に入り、下に(疒+假ーイ)泄して長引くと腸澼となる。』とあり、腸澼を久病として位置付けている。

にもかかわらず急症の下痢と腸澼とを同じものとして把え、両方とも熱が原因であるなどと言うことができるだろうか。

また、《内経》に言うところの瀉痢の症状は、寒によるものが非常に多い。

このことについては泄瀉門で詳しく述べているので参照していただきたい。




朱丹渓はどうして瀉痢の症状についての引用をせずに、二火の説のみをことさらに取り上げて語っているのであろうか。

また《内経》を総覧しても、「暴注下迫は全て熱に属す」の一句はあるが「暴注は火に属す」の文はどこにも見あたらない。

火の年について記載のある部分に暴注という言葉はあるが、それは木・金・土・水の年全てに同じ言葉があるのであるから、火の年を特別視しているのではない。

朱丹渓は自身の発想が火を特別視するところにあるために、経文から無理に引いて自説の証明をしようとしたのであろう。




また経には二火について特別に語られてはおらず、ただ六気の理のみが語られている。

しかるに朱丹渓はなぜ瀉痢の症状の原因を二火に求めたのであろうか。

経に、『長夏にはよく洞泄寒中を病む』とあり、「洞泄熱中を病む」とは書かれていないことに注目すべきである。

このことを朱丹渓はどうして理解しようとしないのだろうか。

もともと瀉痢の原因を火とするという説は劉河間から出ており、朱丹渓はこれを宗として尊崇しているために、経文の言葉をも変えてこのように語っているのである。




戴原礼はまた朱丹渓を宗としているために、「痢には赤白二色あるけれども、結局は寒熱の違いはない。全て湿熱として治療すればよい。」と語っている。

この説が相伝となって、遂に諸家の方論にまでなっているのである。

全ての諸家が瀉痢の原因を湿熱によるものとして、寒湿が原因になっているものがあることを知らないのである。

これによる害は非常に大きいと言わなければならない。





《局方》では熱渋薬を用いることが多いけれども、実熱の新邪に対して薬を用いる場合にも熱渋薬を用いるというわけではない。

その記載を見ると、太平丸・戊己丸・香連丸・(艸/需)苓湯の類もあるのであって、寒剤によって熱証の治療をしているのである。

また真人養臓湯・大已寒丸・胡椒理中湯の類は全てその用法が記載されており、これを証に従って斟酌して用いるのは、これを投与する者の理解にかかっている。

《局方》が熱渋薬を主として用いるからといってそれを非として斥けてよいものだろうか。

《局方》が世に出たのは、宋の神宗皇帝が、天下の高医に()げてそれぞれ治療効果のあがっている処方を奏進させ、成書としたものである。

その中にあるいは粉飾され過ぎているものや取るに足らないものもあるけれども、真に著効のある処方もまた少なからずあるのである。




このように、朱丹渓の言によれば、瀉痢は火によるものが多く、熱薬を用いることによって人を殺すことが多いと言うけれども、私は、瀉痢の原因は寒によるものが多く、寒薬を用いることによって人を殺すことの方がかえって多いと見ている。

明敏なる者はこのことをよく考えていただきたい。










一、朱丹渓が語っている。

下痢をして赤いものは血に属し、小腸に由来するものである。

下痢をして白いものは気に属し、大腸に由来するものである。

両方とも湿熱がその根本にある。

下痢をし始めて一二日の間は、元気がまだ虚していないので大承気湯・調胃承気湯を用いて推蕩するとよい。

これが通因通用の法である。

下した後、その患者が気を病むか血を病むかを判断して薬を用いていくのである。

気を病むものには参・朮の類を用い、血を病むものには四物湯の類を用いる。

下痢をして五日以上経ったものは下してはいけない。

脾胃の気が虚しているからである。

けれども体力がある者であれば下してもよい。






この説では、下痢したときにその性状が赤いか白いかによって血と気とを分け、さらに小腸と大腸とにそれぞれ帰属させている。

これは五行の説に従えばその通りであるが、病状にそって見ていくと、かなり穿った論であると言わざるをえない。




小腸は心の腑であり血を主り、大腸は肺の腑であり気を主る。

しかし水穀の気は小腸において小腸の気によって化していくのである。

また便に血が混じる場合もあるが、これは大腸の血なのではないだろうか。

経に、『血は神気である』とあるが、これは血の赤が気に化することがあるということを言っているのではないだろうか。

また、『白血が出るものは死ぬ。』ともある、気の白もまた血になることを語っているのではないだろうか。

このように、白いものも赤いものも、ともに血気に関わっているのである。

ただその浅い部分を来るものは白く、深い部分を来るものは赤いというだけのことである。

ゆえに経に、

『陽絡が傷られれば血は外に溢れ、血が外に溢れれば衄血する。

陰絡が傷られれば血は内に溢れ、血が内に溢れれば後血する。』とあるのである。

これが真実なのである。

このように明確であるにも関わらず、ただ小腸と大腸とによって血気を分ける必要があるのだろうか。

しかしこの程度のことであればまだ害をなすことは少ないので、深く論難する必要はそれほどない。




けれども、「下痢をし始めて一二日の間は、元気はまだ虚していないので大承気湯・調胃承気湯を用いて推蕩するとよい。これが通因通用の法である。」と朱丹渓が語る段にいたっては見逃すことができないものがある。

下痢をするものには、下してもよいものもあるが、決して下してはいけないものも多くあるからである。

にもかかわらず、一概に「一二日の間」という状況のみによって、「推蕩す」べしと語ることができるだろうか。




病人で瀉すことができるものは当然その元気がしっかりしており、多くは充実した積聚があるはずである。

このようなものであれば、寒邪であるか熱邪であるかを論ずることなく、一度推蕩法を用いればその邪気も瀉されて去り、気も傷られることがない。

ゆえにこれを瀉すべきである。

しかしこれほど元気がなく腹部が脹実することもないものは、絶対に瀉してはいけない。




強盛の人は、食べたものをそのまま消化することができるため、飲食に傷られず、瀉痢をしてもそれに犯されることがない。

もし犯されるようなことがあっても、病気をすることによって回復していくものである。

ところが、病弱な者は、あらゆるものに傷られ易い者である。

この、あらゆるものに傷られ易い者は、その体質が本来的に弱くなっている。

瀉痢を患って非常に長引いて治り難い者には、病弱な者が多く、体力のある者は少ないものである。

そのため、瀉痢が長引いているものを治療する場合に推蕩法を用いるものは、十人中に一人か二人にすぎないのである。




また、体質が弱い者の中にあっても、その程度によって治療法は異なる。

少しだけ弱い者・一段と弱い者・非常に弱い者など、それぞれに対して形気・脉息・病因・症候・実の部分・虚の部分を明確に分析していかなければならない。

もし脾腎の虚によって瀉痢となったものは、どのような場合でも決して下してはいけない。

もし妄りに下せば、病状が軽いものは重くなり、重いものは死に至り救うことができなくなる。

これが推蕩法を軽々しく施してはいけない理由である。

よく見ていくならば、このような誤ちをせずにいる医者は非常に少ないと言わざるをえない。




朱丹渓も晩年にはこの誤ちに気づき次のように語っている、

「私は最近まで治療を重ねてきたが、大虚大寒による病も非常に多い。

よく知っておいていただきたい。」と。

これによってまた、先の朱丹渓の言が、誤ちであったことが判るであろう。










一、朱丹渓はその痢疾門の附録で語っている。

諸積があるかどうかということは、腹部の熱や纏痛(てんつう)によって推測し、

諸気があるかどうかということは、腹部がボコボコするかどうかということから判断していけばよい。

その病の根源を見極めることによって方剤を決めていくのである。

その大要は、風邪を散らし・滞気を行らし・胃脘を開くことを先ず最初にする。

肉豆(蒄)・訶子・白朮の類の補法を用いて、寒邪がいつくようにしたり、米穀・竜骨の類を用いて、腸胃を閉渋させないよう、よく注意しなければならない。

邪気というものは補法によってますます盛になり、変証を起こし、病が長引いて癒え難くなるからである。






この、風邪を散らし・滞気を行らし・胃脘を開くという三種類の方法は、治療法を大まかに言っているに過ぎず、当然言い尽くされているわけではない。

補法を施すことによって寒邪がいつくようになるなどという説は、全く誤っており、人を惑わし易く、人々の考えを非常に深く害するものである。




もしすでに寒邪を受けているのであるなら先ず、その虚実を弁じなければならない。

実のものは実証であるから当然補ってはいけないし、もしこれに反して補えば、その病は補われることによってますます悪化するであろう。

これは当たり前のことなのであって、いたずらに変証を待つ必要はないのである。

もし臓気が傷られたために病になっているものは必ず虚証なのであるから、温補によって治療すべきである。

温めて寒邪を追い払い、補うことによって脾腎を強くしてやるのである。

脾腎が健康であれば、寒邪も去り、病はすぐに治っていく。

補うことによって、寒邪がいついてしまったり、変証を起こすようなことはない。

また、温補の法には米穀や竜骨の類は入らず、また白豆(蒄)や白朮の類だけではない。

もし補うことによって寒邪がいついてしまうといった論に惑わされてこれらの薬を用いることを禁ずれば、

虚者は日に日に虚していって変証が百出することになるであろう。




私が見るところでは、寒涼薬を服用することによって起こる変証の害は、十日前後から数カ月数年にいたり、終には命を脅かすようになるが、

温補を用いることによって変証となり、長期にわたって病が治らなくなるということは聞いたことがない。

私の年齢もすでに古稀を越え多くの経験を積んできたが、人に会って治療についての話しをすると、虚実を分けずに治療をしていたり、補えば寒邪がいつくと言い、邪気は補剤によってますます盛になるものであると語る者がほとんどである。

これほどまでにこの朱丹渓の言を信ずる者は多く、彼の言によって害される者が多いのである。

こういった治療が原因となっていつも病がちになり、寒涼の邪を受けることによって死んでいくのである、

温補を用いることがなければ、究極的にはこのようになっていくのである。




ああ、ただ朱丹渓の一言によってこのような事態に陥るのである。

私は真にこれを悲しみ、この説に対して、

「寒は寒に遇うことによって留まって寒邪を住まわせることになる。

邪は寒を得ることによってますます甚だしくなる。

理は必ずこのようなものである。」

と語ったことがある。

かの朱丹渓の言によって害を受ける者は非常に多い。

よって特にここにその義を明確にし、慎んで迷い苦しんでいる人々に送ろう。










このように、劉河間・朱丹渓の二人は医療を語る場合、火に把われることが非常に多い。

そのため経文に「火」の字があるという、ただそれだけのことからこれを引いて、自説を証明しようとしていることは、これまでに見てきた。

しかしその言が経の本来の意義と一言でも合致しているものがあっただろうか。

いったいかの二氏は経を読むと言いながら、なぜ上下の文をも含めて読み込んでいかないのだろうか。

経文の中からただ一句だけを引いて、自分の著書のさらなる妄言としているのである。

後世の人全てがその偽りを洞察する眼がないとでも思っているのだろうか。

この世の全てを欺くことが一体できようか。

そもそもその「性」「体」が明確ではないのに、人々を非常に深く誤ちに陥れていることを、私は理解できない。






この二氏の説が行なわれたために、軒岐の説が誤って伝わることもまた長かった。

なぜかというと、後人が毒に遭い亡陽する場合は、必ず軒岐が誤って語ったためだとされたからである。

もし軒岐が現代に再び起ってこれを見れば、(まなじり)を裂き、髪を逆立てて怒ることであろう。

これが現代の医者の悩みの源であるが、これは実は、劉河間がこれを創り朱丹渓がこれを完成させたのである。






私がここでこの論をなした理由は、

一つは後人の生命を保つためであり、

一つは軒岐の道統を正すためであり、

一つは後世の、まだ勉強をし始めたばかりで知識がまだ広がっていない者が、もし初めてかの二氏の書を見ると、それを経訓として信じ、終生誤ち続けることが多いためである。

こういった害が言語を絶するものであるからである。






その流れを清めようとするならば、必ずその源から浄めなければならない。

ゆえに概略ではあるが二家の説を取り上げてここに正したのである。

しかしまだまだ言葉は尽されてはいない。

全てを言い尽くすことは真に難しいものである。









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