学術の淵源と学術の影響



以上述べてきた通り、景岳の一生における学術理論の進展は、間 断なく飽くことなく反復された探究と、医療実践によって蓄積さ れた豊富な経験という、二者が密接に結合されることによって形 成されたものであり、その結果として多くの独創的な見解と特色 ある治療法則が提出されたのである。

彼はその一生を通じて著述 に努め、新地平を開拓し、継承と発展に努めることによって、非 常に大きな学術的成果をあげ、また重大な学術的な貢献を成し遂 げたのである。

本書〔伴注:《景岳全書》〕および景岳の他の著述を通して容易に見出す ことができるものは、彼の学術思想の根底には、哲学においては 主として易学と宋明理学の影響があり、医学においては《素問》 《霊枢》を中心とした医学書に深く詳しい造詣があり、それらが 源泉となっているということである。

さらにまた彼は、経典や歴 史や諸子百家についての学識も非常に深く、歴代の医家および医 学流派の学説からも広く採集している。

その中でも彼の学術思想 の形成に対して重要な影響を与えたものは薛立齊と李東垣の説で ある。

薛氏は脾腎命門を重視し、治療に際しては真陰真陽を補益 する温補の法を重視して多く用い、東垣は脾胃を強調し、治療に 際しては脾胃を補益する甘温の法を重視して多く用いた。この両 者の主張は、景岳自身の学術的見解と証治に関する主張と調和し 共振しあっている。そのため、景岳は、彼らの論をさらに大きく 発展させたのである。まさに出藍の誉と言えよう。

一方、景岳は、 易学と理学という哲学的な方面の学問を医学の理論と貫通させ融 合させて、「医易同源」という観点を提出した。

彼は語っている、 『陰陽はすでに《内経》備わっているけれども、その変化におい ては《易》より大いなるものはない。ゆえに「天人一理」と言う のである。一とは陰陽のことである。医学と易学とが同源である とは、この変化の法則が同じであるということである。医学と易 学とはここにおいて相い通ずるものであり、一とはまた理に二つ はないということを表わしている。医学をよくするものが《易》 を知らないということがあり得るだろうか?』と。

このように彼 は唱え、医学と易学とが同理同源であると主張したのである。こ れは個々の陰陽から陰陽の運動変化の基礎にまで及ぶものである。 ここまでは、彼の学術思想の淵源の最も判り易い部分について語 った。







景岳の学説と著述とは、特に本書が世間に流伝された後、医学界 に二種類の異なった反響を引き起こした。そのひとつは肯定的な、 彼の論に賛同するものであり、もうひとつは排斥的な、彼の論を 批判するものである。特に後者は清代の中葉に集中しており、景 岳の学説をめぐる議論は、非常に激烈な学術的論争となった。こ の事実はまた、景岳の学説の影響がいかに大きかったかというこ とを、また一面で証明しているものである。

景岳の学説に賛同す る医家のうち張石頑は、その著《張氏医通》の中で景岳の説を多 く取り入れ、ことにある種の雑病の治療において多く景岳の方法 を採用している。彼は、『《霊枢》《素問》《金匱要略》の外に その理を明らかにし辞がよく通じているものは、・・・(中略) ・・・張景岳等で、指を屈することのできるものはそう多くない』 《医通・凡例》と述べ、その書の末尾には景岳の「八略」の 全文を収録している。さらに彼は「兼略」という一文を自ら補い 「八略」の後に掲載している。

他に、李中梓の《医宗必読》・李 用粋の《証治彙補》・費伯雄の《医醇(月拳-手+貝)義》等におい ても景岳の学説と治法方薬の多くが採用されている。

さらに《臨 証指南医案》においても、一代の温病の大家であり医学の宗師で ある葉天士が、景岳の処方二十余方を引用している。ことに生地 黄・麦門冬・白芍・沙参・生甘草・茯苓等が選用されている景岳 の「四飲煎」と葉氏の「益胃湯」とは、非常に似た組み合わせで 構成されている。

また呉鞠通は、景岳の傷寒や温病の説に対して 異議を唱えてはいるが、その《温病条弁》の中では玉女煎加減を 温病の気血両燔の主方として用いている。そして、呉鞠通が雪梨 漿を用いて温病の熱邪によって津液が傷られたものを治療してい るのもまた、景岳にその淵源がある。

さらに清代の医家である劉 松峰は、本書の内容を抄録して《景岳全書節文》という書物を作 成している。しかし惜しむらくはその書が現在まで流伝したとい う形跡は見つかっていない。

このように見ていくと、査序の中で 『医を語る家で、この書を奉じ法として守らないものはなかった。』 と称えられていることが、単なる虚言ではなかったことが理解さ れるであろう。

呉鞠通の書においてもまた、『現代の医家は、三 家(張景岳・呉又可・喩嘉言)を宗とするものが多い』と記載さ れているのである。







景岳に対する反対意見は、景岳の哲学思想に対するものと景岳が 治療の際に温補を用いすぎることに対して主として集中している。

前者については章虚谷が《医門棒喝・景岳の書を論ず》の中で、 《医易義》および《大宝論》等は全て『正しいように見えるが実 は誤りに満ちた文章である』と断じている。

彼は自分の『理は気 に先んじて存在する』という観点を堅持したまま、『ゆえに陰陽 五行万物を生ずることができるものは、それらよりも先に存在し 主宰しているものであり、《易》でいうところの万物を妙生させ る神である。』と説く。

章虚谷はそこから景岳の論を怪しみ責め るのである。『神は気によって化すということであるけれども、 これでは先ず気があって後に神があるということになる。景岳先 生は本末が明らかになっていなかったと見るべきである。』と。

しかし景岳は実際には人の生を説く場合に、『形に基づいて気が 舎り、気に基づいて神が化す』とし、『そもそも万物が化生する のは、総て二気による。この二気とは陰陽の気であり、本来同じ ものである。そのため根は一から出て極まりなく変化するのであ る。』《類経図翼・陰陽体象》等と論じている。

このように 景岳の説は、物質そのものを基礎とした正確な説であると言えよ う。

景岳が説く所の「医易同源」「医易同理」は、陰陽の二気が 同じものであるということと、陰陽が運動し変化するには物質的 な基礎があるということに基本的に基づいて論が展開されている。

しかし実際に景岳が易や理等の哲理を医理の中に引用する際には、 当を失していたり牽強付会となっている部分や、形而上学的な雑 駁とした理論を述べている部分があることもまた事実である。

た とえば、『象数がまだ形をとっていない場合であっても理はすで に具わっている。』『天地より先んずるものはない。結局先ずこ の理が先にあるのだ。』《類経図翼・運気》等々。医学と哲学と は結論から言えば二種類の異なった学問体系なのであるから、そ れぞれに独特な法則があるものである。

総合的に言えば、本来ど のような自然科学であっても哲学の指導と支配を受けるものであ り、具体的に言えば、哲学がいかに追求されようとも自然科学の 代わりにはならないし、自然科学がいかに追求されようとも医学 の代わりにはならないのである。景岳のこのような雑駁とした形 而上学的な論点はところどころで見られるものであるが、これは 彼の時代的歴史的な社会背景によるものであろう。







景岳は温補をよく用い、それに関連した学説を説いているが、こ れに対して批判している医家とその主たる論法をあげてみよう。

章虚谷はその《医門棒喝・景岳の書を論ずる》の中で、景岳は 『六気の変化を理解していないため、外邪の証治を論ずる際の理 論が明確ではなく、補に偏ってしまった、・・・(中略)・・・ そして内傷の証治においても扶陽に偏執することとなったのであ る。』と決めつけている。

陳修園は《景岳新方(石乏)》で景岳の新方 とその処方の組み合わせを論じて、『雑駁模糊としており、庸医 が補法をいいかげんに用いる方向へと道を開いた』(大補元煎) とし、また大柴胡飲に対しても非常に激しい批判を加え、ついに は『傷寒の病でこの処方によって枉死するもの、一年で数千万人 にのぼる。』とまで語っている。

しかしこの論理の立て方は非常 に偏っており、その言葉もあまりに激しすぎると言わなければな るまい。

さらに葉天士の名を托し姚球が撰述した《景岳全書発揮》 という書物では、景岳の原文を節録してそのいちいちに対して批判を 加えているが、そこには景岳を攻撃する言葉が行間に満ち溢れて いる。この書は遅れて出版されたものであるが、景岳批判の代表 的書物ともいうべきものである。

たとえば、『勝手に主見を作り、 陽を重んじて、深く前賢を誹った。』と断じたり、『勝手に偏っ た見解を示して、温補を専ら本とし、陽を助けることを主とする』 と批判している。

このような姚球の論の中にも肯定的に見える部 分があるけれども、景岳を『《内経》の言をすべて廃せんとする 真の軒岐の罪人である』と断じたり、甚だしいものは『医中の賊』 とまで景岳を誹謗しているのであるから、あまりにも言葉が激し 過ぎ、ただ先人を罵倒しているだけの書物としか思えない。

この ような彼の観点こそまさに門戸の見であると言わなければならな いであろう。この書などは学術的な論争の範囲をはっきり逸脱し ているものである。







このような批判者の中には、学術的な論争や偏見以外に、尊経崇 古の風潮が比較的盛んだったその時代的社会的背景が一定の関係 をおよぼしていると考えられるものもある。また逆に、景岳の学 説の時代的背景という要素を全く認識できていなかったというこ ともあるだろう。

このことについては、景岳自身が《伝忠録・陽 不足再弁》の中で非常に明確に述べている、『私が語っている陽 は常に不足するという論も、一つの偏った見方にすぎない。しか し丹渓の補陰の説の誤りに対して一言しなければ万世にわたる生 気を救うことができなかったために、このような言い方をし、万 世にわたる生命を救わんとしたのである。』『私が陽は常に不足 すると語ったことも、ただ性命を惜しむ者の単なる杞憂というこ とに治まるであろう。』と。

このように補に偏るという誤ちに陥 る可能性があることをも考慮に入れながら、彼はそれまでの誤ち を自分が正しすぎることに対して非常に用心しているのである。

しかし後世、彼の学説を尊崇し継承しようとした人々は、そのよ うな彼の心を全面的には理解することができず、偏った学説によ って偏った証治を施すという新たな病を作り上げてしまったので ある。このような景岳を尊崇する人々が犯した咎をも、全て景岳 の学説自体の責任であると断じてしまってよいものだろうか。

《四庫全書提要》にはこれに対して、『その説を讃えるものは、 証候の標本を察せず、気血の盛衰を究めず、一概に補い一概に温 めて、これを王道といい、・・・(中略)・・・寒涼攻伐等を与 えることを忘れている。多くの病状は極めて変化に富んでいるも のであるから、ひとつの道にしがみついていてはいけない。薬を 用いる際に病状に従うなら、ひとつの理論に拘わることはできな くなる。先に総合的な理論を作って諸治法を統括しようとすると、 どうしても偏ったものになってしまうものである。』と語り、

ま た、『陰陽を偏重してはいけないということを知り、攻補を偏廃 してはいけないことをよく理解して、一つの弊害を除いてまた別 の弊害を生ずるといった事態に至らないですむよう、よくよく注 意していただきたい。』と、公平な評論を述べている。







《景岳全書》について偏見のないところから語れば、その理論認識と 実践的な問題の中に、偏った観点から述べられている部分や言葉 の足りない部分が一方ならずあることは確かである。であるから この書をそのまま景岳の遺言として尊崇してはいけないことは確 かなのである。

たとえば《伝忠録・論治篇》の中に、『臨証的に は必ずしも虚証であるかどうかを論ずる必要はなく、ただ実証が 無いということを根拠にして診断し、兼補する。・・・(中略) ・・・また、必ずしもそこに火証があるかどうかを論ずる必要も なく、ただ熱証が無いということを根拠にして診断し、兼温する ことによって命門脾胃の気を培っていくことができるのである。』 とあり、

また《新方八略・攻略》には、『実証のものを誤って補 ったとしても、病が悪化するにすぎない。そのようにして病が悪 化すればそのまま解ける。虚証のものを誤って攻めると、必ず先 ずその元気が脱する。元気が脱したものは治療することができな い。』と述べられている。これらは明らかに偏った観点である。

景岳はまた傷寒と温病とを寒証として一本化し、『温病はすなわ ち傷寒である』《雑証謨・瘟疫・論証》と断じている。

そして暑 病を論ずる場合に強いて陰暑と陽暑とに分け、陰暑は、暑い時期 に陰寒の邪に感じたためになったものであるとして「暑証」と名 づけ、安易に滋潤の薬を混ぜて処方している。さらにまた彼は、 香(艸/需)飲を沈寒清涼の品であるとする等の誤ちも犯している。 (《雑証謨・暑証・香(艸/需)飲を論ずる》)

そのため呉鞠通は これを批判して、『論を立て処方を出す際、全て傷寒と混同して いる。温病はすなわち傷寒であると論じて、前人の考えを踏襲し ている。全く実を得る所がない。』《温病条弁・原病篇》と 断じ、薛生白もまたその《湿熱條弁》の中で、『昔の人は暑い時 期に寒湿に傷られることをそのまま表現せずに陰暑と名づけたた め、後人は非常に混乱してしまった。この誤ちは決して軽いもの ではない。』と語っている。







景岳にはさらに、その学術的な論争を展開していく過程の中での 問題がある。それは、一部でも問題があると考えるとそれ以外の 部分につても批判的となって非常に短絡的に言葉を発し、時には かなり偏った激しすぎる言葉で論難しているということである。

たとえば劉河間が暑火に基づいて寒涼を用いることを論じ、丹渓 が陽は常に有余するという認識から陰虚火動の説を唱えているこ とに対して論ずる場合、景岳は、その学説の内容や時代的な背景 についての全面的な考察をすることによってそれらの学説の歴史 的社会的な制約の下での進歩的な意義を客観的に認めることはせ ず、正面からおおなたを加えて全面的に否定し、甚だしい場合に は『軒岐の魔』《伝忠録・陰陽篇》という言葉まで用いてこ れを排斥してしまうのである。

また李子建の《傷寒十勧》を批判 していく中では、文章の一部だけを抜き出してその意味を規定し たり、甚だしい場合はただ一語だけをとって『痛むべし、恨むべ し』等の言辞を連ねている。

このような景岳の態度は、学術的な 論争をしていくにはふさわしからざるものである。《四庫提要》 では元の許衡の《魯斉集》の説を引用して、『張氏〔訳注:張元 素〕の用薬は四季に従って増減しているが、これは《内経》の四 気調神大論の論にそっている。・・・(中略)・・・劉氏〔訳注 :劉河間〕の用薬は陳旧なものを排泄して新たにしていこうとす るものであり、中に抑鬱させることが少なく、まさに日々新たに なっていく造化の機微にしたがったものである。』『もしこの二 家の長所をとって弊害をなくすることができれば、すばらしい治 効があがるであろう』と述べている。

このような考え方こそが非 常に合理的かつ公正な評価方法であろうと私も思う。

しかし景岳 にはこのような観点がなかった。この点が景岳において問題点で あった。







以上述べたようないくつかの問題点はあるけれども、景岳の数々 の輝かしい学術的成果・学術的貢献と比較するなら、それは大き な光の中の非常に小さな影にすぎない、いわば千慮の一失とも言 うべきものである。そのためこれらの問題点は、本書の理論上実 践上の重要な価値をいささかも損なうものではない。

最近の十年 来、《景岳全書》の影印本は数回刊行されている。その流伝範囲 は広く、読者の人数も非常に多くにのぼり、時代を超えた信頼を 張景岳が得ていることが判る。

また本書および景岳の学説につい て研究した文章は、目につく範囲内の一九八七年における雑誌の 不完全な統計においてさえ、二百篇近くある。その内容は、文献 研究者に属するものもあり、考証学者に属するものもあり、実験 室や方剤研究のものもあるが、それぞれに重要な研究成果を張景 岳の学説から得ている。

また景岳の故郷である紹興市の中医学会 では、景岳の学説の専門的な研究がなされている。広州の羅元 (忙-亡+豈)教授は、《婦人規》の部分だけを専門的に解釈し整理 して出版している。

このように景岳についての研究は非常に広範 にわたっており、全面的でかつ非常に深く研究されている。この 事実は歴史的に見ても未曾有のことであると言えよう。

このよう に景岳の学説と著作が十分に説明され、さらに長期にわたる実践 経験を積んでいくならば、景岳の栄光はますます輝きだしてくる であろう。

今回、本書が全面的に整理校訂されて出版されること になったことは、景岳の学術思想に対する研究が新たな歴史的段 階を迎えたことをまた意味しているものである。









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