前文






秦越人の《難経・第二七難》には、『脉には、奇経八脉というものがあり、十二経脉に拘わらないというのは何なのでしょうか。 然なり。陽維・陰維・陽蹻・陰蹻・衝・督・任・帯の脉があります。この八脉は皆な経脉に拘わりません。ですから奇経八脉と言います。』云々と述べられています。

滑伯仁は、『「奇」とは「正」に対する言葉で、兵家において奇正と言っているようなものです。』と述べています。

【原注:孫子に、『そもそも戦をしようとするときには、正をもって合し、奇をもって勝つ』とあります。また講義には、『示す際に正をもってしなければ、敵の来襲に対処することはできない。奇をもって制禦しなければ、敵に勝つことはできない』とあります。】

虞氏は、『奇とは奇零の奇であり、偶ではないという意味です。この八脉はいわば、正経の陰陽にかかわらず、表裏の配合がありません。道が(こと)なり、流れも(こと)なります。このゆえに奇経というのです。』と述べています。「奇」には「正」とは(こと)なるという意味があり、また、そむくという意味もあります。

滑伯仁の解釈は。十二経はそもそも陰陽表裏で配合されており、その行く道も正しいものです。ですから正経と名づけられています。奇経はこの正経に対して奇と言っているものです。そもそも奇経の八脉は、陰陽表裏で配合されているものではありません。これはまさに正経に対比されることによって奇経と言われているのです。「対」という文字が大切です。奇経八脉だけで奇と言っているわけではありません。かの正経もまた奇経に対比されることによって正経と言われているのです。十二経だけで正と言っているわけではありません。十二経は奇経と対比されてはじめて正経であり、八脉は十二経に対比されてはじめて奇経なのです。ということを述べているものです。

ここにおいて兵家が奇正と言うようなものであると、滑伯仁は述べているわけです。戦の方法は、敵に示す際には正をもってしますが、戦う際には奇をもってします。正をもって示すということは奇の方からみると正となるのであって、奇をもって戦うということは正の方から見ると奇となるのです。奇に対しての正、正に対しての奇であって、それぞれが独立して奇正の別として存在しているわけではありません。

虞氏が言うところの「奇零」とは、数学家の言葉です。計算し尽した最後に余るものを奇零といいます。これは俗に言われている「はした」という意味です。

『偶ではない』とあるのは、物が揃っている状態を偶としますので、偶ではない状態にもまた「はした」の意味があります。

以上のように、奇経の奇という言葉の中には、奇零であり偶ではないという意味があり、この八脉は十二正経の陰陽表裏の配合のようにたがいに偶するということはなく、一経一経離れており脉道も別であり、営衛の流れを(こと)にしています。まことに「はしたもの」、奇零であって偶ではない状態であると言えます。この故に奇経と言われているわけです。







奇経八脉とは、陽維脉・陰維脉・陽蹻脉・陰蹻脉・衝脉・督脉・任脉・帯脉のことです。陽維の脉は諸陽の経を維持(つなぎたもつ)し、陰維脉は諸陰の経を維持し、陰蹻・陽蹻の両脉は脚足の内外を流れて行動(ゆくうごく)の用〔伴注:機能〕をなしています。衝脉は上下全身に衝通して経絡の海となり、督脉は背部を流れて諸陽の脉を()べ、任脉は腹部を流れて諸陰の脉を(はらむ)養し、帯脉は腰部を束ねて諸々の陰陽の経を約し束ねているものです。

この八脉はすべて十二経に拘りません。このゆえに奇経八脉と呼ばれています。

経に拘らないという問題については後に詳しく注してあります。







経脉に十二種類あり、絡に十五種類あり、この二十七種類の気が、互いに従いあって上下しています。奇経だけがどうして正経に拘わらないのでしょうか。

然なり。聖人は溝渠を図り設けて、水道を利し、不然の時に備えました。天から雨が降下して、溝渠が溢れ満ち、この時に当って霶霈は妄りに作ります。こうなると聖人といえども復び図ることはできなくなります。

このようにして絡脉が満ち溢れます。諸経がこれに拘わることはできません。
〔伴注:難経二十七難〕



常経には、手足の六陰六陽の十二経があります。絡には陰蹻絡・陽蹻絡・脾の大絡があり、ぜんぶで十五絡とします。十二経と十五絡とをすべて合わせて二十七気とします。これらが互いに従いあって全身を上下します。

ではどうして、奇経の八脉は独り十二経に拘らないのでしょうか。それは、上古の聖人が溝渠を図り設けて、水道を通利し、水変の然らざるときに〔伴注:大雨や洪水などの突発的な事態に〕備えたわけですけれども、もし天から雨がひどく降ってくると、水が溝渠に溢れ出てしまいます。このようなときには霶霈が妄りに、その流れるに任せて地上に作られてしまいます。このようなときにはいかに聖人であっても、これを図る〔伴注:コントロールする〕ことはできません。

人身に奇経があるのもまたこのようなことです。経が満ちれば絡に注ぎ、絡が溢れれば奇経に流れます。ゆえに、絡脉が満ち溢れて奇経に流れるときには十二経であってもこれに拘ることはできないのである、と考えられているわけです。


「溝」田の間の水道〔注:水の流れるところ〕。広さ四尺深さ四尺。
「渠」深く広いようす。水道。
「霶霈」大雨が降って水が盛んに流れているようす。







ある人が聞いて言いました。《内経》には、十五絡は、十二経の十二絡と督脉の絡・任脉の絡・脾の大絡のことであると述べられています。にもかかわらず先生が、陰蹻陽蹻と言われているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。私が上にあげているのは《難経・二六難》で言われていることです。十五絡について、《内経》においてはあなたの言うように見、《難経》においては私が言うように読んでください。《内経》と《難経》とは時々異なるところがありますけれども、その意味するところに優劣があるわけではありません。まことに通論でありますのでこだわらないようにして下さい。








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