督脉




張潔古は『督とは都のことです。陽脉の都綱となります』と述べています。督脉は背脊頭面といった陽部の中行を流れて、諸々の陽脉の都綱となっているためです。

督脉図



《素問・骨空論》の王冰の注に、『任脉・衝脉・督脉は、一源にして三岐です。とあります。ですから、経によっては衝脉という言葉で督脉を述べているものもあります。どうしてこのようなことが言えるのでしょうか。甲乙経及び古代の経脉流注図経には、任脉の脊をめぐるものを督脉と呼び、少腹より直ちに上るものを任脉と呼びまた、これを督脉と呼んでいるものがあります。これはすなわち背腹の陰陽によって別けて名前を付けているのではないでしょうか云々。』とあります。

また、『任脉・衝脉・督脉は、名は異なりますが同じ体です。任督衝の三脉は、子宮血海に生じて、その外の脉は別れて三岐となっているものです。これはたとえば、海に西南東北の別はありますけれども、実はただ一つの水の流れであるようなものです。人身における督任衝も、その行くところによって名前は異なっていますけれども、実はただ一つの、子宮の流れなのです。』とあります。


ある人が聞いて言いました。督任衝の三脉は、一源に生じて三岐しているだけということであれば、その間には貴賎の区別はないのでしょうか。

答えて曰く。《骨空論》に対する景岳の類経の注に、『督脉はすなわち任脉・衝脉の綱領(おおもと)です。任脉と衝脉とはすなわち督脉の別名であるにすぎません。』とあります。この言葉は三岐の意味を深く理解しているものであると思います。経に論じられていることを考えてみると、任督衝の三脉の中では、督脉こそがその綱領となります。ですから、衝脉任脉をそのまま督脉と呼んでいるのです。

また、《骨空論》においてはただ督脉の治法だけ述べられ、任脉衝脉については及んでいません。さらには、督脉の治法を述べる際に、曲骨・陰交の二穴をとっています。これは任脉の本穴にあたります。督脉を治療する際に任脉をとるということもまた、督脉が任脉衝脉の綱領であるためです。

ですから、考えてみると、会陰の一穴は任脉の本穴ではありますけれども、督脉の本穴でもないかと思うのです。どうしてかというと、会陰は任督衝三者が外の脉へ分かれる源の場所だからです。任脉はここから分かれて腹部に生き、衝脉はここから分かれて足の少陰に並び、督脉はここから分かれて背部に行きます。まさにこの会陰こそは、外の脉〔伴注:任脉・督脉・衝脉〕の一源三岐する位置にあるわけです。であれば、督脉を任脉衝脉の綱領とするわけですから、その外の脉の本原である会陰穴もまた、督脉の本穴でなければならないと考えられるわけです。








《素問・骨空論》に、督脉は少腹に起こり、骨の中央に下り、女子は入って廷孔に繋がります。その孔は【原注:上の廷孔を解釈して述べています】、溺孔(いばりのあな)の端にあります。



【原注:少腹に起こるとは、王冰・馬玄台ともに会陰の分〔伴注:領分・場所〕としています。思うにこれは、督脉の発する源について述べているものでしょう。会陰は外の脉の起こる所であり、実は起発する所ではありません。督脉は、少腹の内部、子宮胞中に起発して、陰毛の毛際の内側、横骨の中央に下り、女子は入って廷孔に繋がります。この廷孔というのは、前陰の(いばり)〔伴注:尿〕が出る孔のことです。そもそも廷とは、正であり直です。前陰正中の直孔、溺が出る門のことなのです。入るとは、前陰の部分に入ることを意味しています。】




その絡は陰器をめぐり、簒間に合し、簒後をめぐり、別れて臀部をめぐり、



【原注:簒は纂の略字です。内経にはこのような略字が時々見うけられます。纂間は、大小二便が争い行く場所であり、前後の二陰の間のことで、俗に、「アリノトワタリ」と言われています。会陰の分にあたります。これは、督脉の別絡は、廷孔に繋がり、そこから別れて、前陰器をめぐり、さらに纂間で合し、纂後の後陰の分をめぐり、さらに別れて臀部をめぐるということを意味しています。そもそも陰器をめぐるときは二つに別れてめぐります。このゆえに、纂間に合すると述べているのです。

ある人が聞いて言いました。上文にはただ女子の廷孔に繋がるということだけを述べ、男子について述べていないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。男子は莖が垂れて蔽っているために溺孔が見えません。そのため女子の見えるもので先に文を作っているわけです。そして、下文でさらに、男子は莖の下をめぐって纂に至ります。女子と同じことです。と述べているわけです。】







簒間の図









少陰と巨陽の中絡ととともに至り、



【原注:巨は大という意味です。巨陽は足の太陽膀胱経を指します。中絡は膀胱経の背の第二行を流れて下って腎を絡うものを指します。これは、督脉が臀部をめぐる際に、足の少陰腎経と足の太陽膀胱経の中絡とに至り合することを述べているものです。】




少陰の股内の後廉に上り、脊を貫き腎に属し、太陽の目の内眥に起こり、額に上り、巓上に交わり、入って脳を絡い、還って出て別れて項に下り、肩膊の内をめぐり、脊を挟んで、腰中に抵り、入って膂をめぐり腎を絡うものとともに合します。



【原注:これは、上文における『少陰と巨陽の中絡とともに至』るという文言を解釈している文章です。

督脉の別絡は、臀部をめぐり少陰に至るとありますがこれは、足の少陰腎経の股の内の後廉、陰谷穴より上って臀部を経て、督脉の長強穴に入り、(せぼね)尾骶骨(かめのを)を貫いて、(うち)腎に属するものとに至ることを述べています。

また、巨陽の中絡に至るとは、足の太陽膀胱経、目の内眥、睛明穴に起こり、額の督脉神庭穴に上って、頭巓の頂上、督脉の百会穴に行き、左右両行が一つに交わり、ここから絡却穴を経て、枕骨の下に入り、脳海を絡い、還ってまた浮き出て左右に互いに別れて、項の天柱穴に下り、そこから肩膊の内をめぐり、脊の左右各々一寸半を挟んで、背部第二行となり、下って腎兪に当たり腰中に抵り、ここから入って膂肉をめぐり、深く達して腎を絡うものとに至ることを述べています。


「脳」頭の骨の中の髓液のこと。

「肩膊」俗にいう手のうちかけのこと。肩膊の内の、背部の第二行、大杼・風門などの流れを言います。

「膂」脊の左右に高く起こる肥肉のこと。 】




その男子は、莖下をめぐり簒に至り、【原注:これもまた、纂の略字です】女子と等しくなります。



【原注:『等し』とは、同じという意味です。上文においては、『女子は入って廷孔に繋が』ると述べ、男子については言及されていませんでした。ですから、督脉が入って廷孔に繋がり、陰器をめぐり、纂間に合し、纂後をめぐると述べられている部分は、男子においても、前陰の莖の下において廷孔の上端に繋がり、纂間纂後に至るということは、前の女子の場合と同じであるということを述べているのです。そもそも、女子においてその廷孔は露出しておりますが、男子においては莖が垂れて蔽われているため見えないものなのですが、督脉の流れは莖の下において女子と同じであることが述べらているわけです。 】




その少腹より直ちに上るものは、齊【原注:臍と同じ】の中央を貫き、上って心を貫き、喉に入り、頤を上り、唇を環り、上って両目の下の中央に繋がります。



【原注:督脉の、少腹より直ちに上るものは、臍の中央神闕を貫いて上って膻中に行き、心胸を貫き、天突廉泉に至り、喉嚨に入り、頤に上り、承漿に行き、唇を環って絡い、別れて上って、両目の下の中央、陽明胃経の承泣穴に繋がります。

これは任脉の流れる道であると思います。どうして督脉としているのでしょうか。

《五音五味篇》には、『任脉と衝脉とはともに胞中に起こり、上って背裏をめぐり、経絡の海とします』とあります。背裏をめぐるものは実は督脉です。にもかかわらず、あちらでは任脉衝脉は背裏をめぐると言い、この篇においては督脉は少腹をめぐるとしています。

ここには、一源三岐の心があるのでしょう。任督衝は、行くところの背腹陰陽をもって、その名前を異にしていますけれども、実は、一つの胞中の流れにすぎません。ですから、経の中で、任脉の流れを論ずる際に督脉の流れもすべて述べ、督脉の流れを論ずる際には任脉の流れもすべて述べているのでしょう。

王啓玄子は、『任脉が背をめぐるものを督脉と名づけ、少腹より直ちに上るものを任脉と名づけ、これもまた督脉と呼んでいます。このように述べられているのは、背腹をもって陰陽を分けて任脉督脉と述べているものです。この三脉はすなわち名前は異なりますけれどもその体は一つなのです。』と述べています。

《註証発微》には、『督脉任脉はその名は異なりますけれども、気脉に違いはありません。督脉の流れる所はまったく任脉の流れのようなものです』と述べています。 】







《霊枢経脉篇》に、督脉の別を名づけて長強といいます。膂を挟んで項に上り、頭上に散じ、下って肩甲の左右に当たり、別れて太陽に走り、入って膂を貫きます。と述べられています。



【原注:これもまた、督脉の別絡を述べているものです。長強穴は尾骶骨の端に存在します。


「膂」脊の左右に高く起こる肥肉のこと。

「肩甲」俗にいう、かりが子ぼ子〔伴注:かりがね骨?〕膏肓穴の傍らにある片骨のこと。


これは、督脉の別は、長強より別れて、膂肉を挟み、上って項に行き、頭上に散布します。散とは、その経の流れが自然に微細になることを言います、頭上に散じて、ふたたび背部に下り、肩甲骨の左右に別れて、足の太陽膀胱経に走り行き、太陽経とともに背肉に入り、膂を貫くということを述べているものです。

別れて太陽に走ると述べられているのは、ここから別れて裏に達するものと、太陽に走るものとの二脉があるということを意味していると思います。また、その長強より上るものは、太陽の二行に従い、下って肩甲の左右に当たり、別れるものは、太陽の三行に注ぐものだということなのではないでしょうか。 】







《難経・二十八難》に曰く。督脉は下極の兪に起こり、脊裏に並び、上って風府に至り、入って脳に属します。



【原注:下極の兪について、丁徳用は、長強穴であるとし、滑伯仁は、会陰穴であるとしています。

任脉は中極の下に起こるということに関して、丁氏も滑氏もともに注して曲骨穴であるとしています。会陰はもともと任脉の本穴です。任脉のところで会陰について述べず、かえって督脉のところで会陰を述べていることに、どのような理由があるのでしょうか。滑伯仁の註義には、今ひとつ納得できません。丁氏の注に首肯します。


「風府」督脉の本穴です。後髪際を入ること一寸にあります。

「脳」頭骨の中の「あぶらち」です。

これは、督脉は任衝とともに胞中に発し、会陰に浮き、別れて下極の兪である長強穴に起こり、ここから脊骨の裏に並んで上行し、頭中に走り、風府に至り、ここから深く頭骨に入り、脳海に属するということを述べているものです。 】







《甲乙経》に曰く。督脉は下極の兪に起こり、脊裏に並んで上って風府に至り入って脳に属し、巓に上り、額をめぐり、鼻柱に至ります。陽脉の海です。



【原注:脳に属するというところまでは上記《難経》の言葉と同じです。脳に属するところから、巓頂の百会に上り、額をめぐり下って鼻柱に至るとし、督脉は陽脉の海であるとしています。

そもそも人身の陰陽は、背部を陽とし腹部を陰とします。督脉は背陽部の中行を流れて、頭面の陽の場所に走り至ります。また長強穴において足の少陽太陽と合し、大椎穴において手足の太陽少陽・手の陽明に会し、風府・唖門の両穴において陽維と会し、百会穴において足の太陽と会し、水溝穴において手の陽明と交会します。ですから、督脉は、諸陽の脉の会するところの合海なのです。

《十四経発揮》にはここの文言が載せられていますが、『入って脳に属し』が『脳に入り』となり、『陽脉の海です』が『陽脉の海に属します』となっています。〔伴注:意を受けて訳してあります〕


以上の督脉の流れを考えてみると、督脉の腹部を行くものはすなわち任脉の流れです。脊を挟んで両行するものもまた、太陽経に並んで流れているのですから、これらはともに督脉の別ということとあります。その本経については、脊の中を行くもので、これに関して《難経》も《甲乙経》も述べているところです。また《気府論》における、督脉の気の発するところの二十八穴の順番に従って考究していくならば、督脉の本経の流れの行度について明らかに理解することができるでしょう。 】







《素問・気府論》に曰く。督脉の気の発するところは二十八穴あります。項の中央に二つ、髪際の後ろの中に八つ、面の中に三つ、大椎以下尻尾および傍らに至るまで十五穴




【原注: 項の中央に二つとは、風府唖門の二穴のことです。

髪際の後ろの中とは、前髪際より後髪際に至るまでの間にある八穴をいいます。神庭・上星・顖会・前頂・百会・後頂・強間・脳戸のことです。

面の中に三つとは、素髎・水溝・兌端の三穴のことです。

尻尾とは、亀の尾のこと。傍らとは、長強の傍らにある会陽穴を指しています。会陽は足の太陽の本穴ですけれども、督脉の気の会穴ですので並べて述べられています。

大椎・陶道・身柱・神道・霊台・至陽・筋縮・中枢・脊中・懸枢・命門・陽関・腰兪・長強。督脉の背中にある十五穴とは、これらに会陽の二穴を並べたもので、実際には十六穴になります。

総べて合わせると督脉の気の発するところは二十九穴となり、本経に督脉の気の発するところは二十八穴とあることに符合しません。そのため後世、《鍼灸甲乙経》等の書物では、督脉の背中を流れるもののうち、十四椎下の命門の一穴は上古には存在せず、後世これを加えたものではないかと疑っています。

どうしてかというと、《内経》にはもともと、右腎命門の説はなく、《内経》で命門といえば、すべて目のことを指しており、越人の《難経》において初めて腎命門の名前が出てくるためです。

ですから《素問》に『大椎以下尻尾および傍らに至るまでの十五穴』とあるのは、命門を入れずに脊中の十三穴と、長強の傍らにある足の太陽の会陽の二穴を並べて十五穴としているのだと考えているわけです。 】







《十四経発揮》に曰く。《内経》【原注:上記、《気府論》の文言を指します】における督脉の発するところにもの二十八穴の法に基づいて考えてみると、【原注:《気府論》の王冰の次注において、二十八穴を数えた法に基づいて、滑伯仁も今また督脉の主る所の兪穴を考えてみると】十椎の下の一穴を中枢と名づけ、陰尾骨【原注:亀の尾の骨をいう】の両傍の二穴を会陽と名づけ、全部で二十九穴となります。今、齦交の一穴を増やし、中枢の一穴を減らし、会陽の二穴は督脉の別絡に係り太陽と会するとします。そのためただ二十七穴を載せることとします。



【原注:《気府論》の次注において王氏が数えている法に基づくと、十椎下の一穴と会陽の二穴とを数えたため、督脉の主る所のものは二十九穴となっています。この問題に関する詳しい解説は上記しました。しかし今、滑伯仁は《気府論》における任脉の気の発するものの中から、齦交の一穴をとってこれを督脉の数の中に入れています。さらに王氏が入れている中枢の一穴を減らして数えず、また会陽の二穴は督脉の別絡であるとはいっても太陽の本穴であるため、滑氏はその《十四経発揮》には督脉の本穴としてただ二十七穴を載せると述べているわけです。


ある人が聞いて言いました。滑氏はどうして齦交を増やして中枢を減らしているのでしょうか。

答えて曰く。《気府論》の任脉の気の発する所には、齦交一穴を述べています。王氏の次注には、督脉の穴であり任脉に会するとあります。齦交は、素髎・水溝・兌端と流れて下って至るところの督脉の本穴です。また、中枢の一穴は《気府論》における督脉の気の発する所の大椎以下云々に対する王氏の注にはありますけれども、皇甫謐の《甲乙経》においてはこの穴が掲載されていません。このため滑伯仁は齦交を取り中枢を減らしているわけです。後世、皆なこの説に従っています。 】




《十四経発揮》に曰く。屏翳(ひょうえい)【原注:会陰の場所】から起こって長強穴を経、脊裏に並んで上行し、腰兪・陽関・命門・脊中・筋縮・至陽・霊台・神道・身柱をめぐり、風門を過ぎ、陶道・大椎・唖門をめぐり、風府に至り、脳に入り、脳戸・強間・後頂をめぐり、巓に上って百会・前頂・顖会・上星・神庭に至り、額をめぐり、鼻柱に至り、素髎・水溝・兌端を経、齦交に至って終ります。



【原注:以上は、滑伯仁が《内経》《難経》をたづねて督脉の本経の流れる順序を明確にしているものです。督脉の行路は腹背に多々流れていますけれども、この長強から齦交に至る中行をもって本経とすべきでしょう。

この滑伯仁の説の中の、督脉が身柱から上って風門を過ぎて陶道に会するというのは真説ではないと、私は思います。《甲乙経》に、風門は足の太陽の穴で督脉に会すると述べられていることに従ってこの滑伯仁の言があるのでしょうが、風門は足の太陽の本穴であって、督脉が別れてここに行くことはありません。ただ督脉の気が会する場所であるというだけで、決して脉が会するわけではないのです。風府は督脉の本穴であって決して太陽の脉が行くところではないのですが、経の中には太陽が風府に属するという記載が多く見られることもまた、太陽の気が会するためなのです。ですから経脉がここに会するわけでは決してありません。《甲乙経》に、風門が督脉に会するとされいることの意味もこれに従って理解しなければなりません。 】







李時珍曰く。督脉はすなわち陽脉の海です。その脉は腎下胞中【原注:胞中とは子宮中のことです】に起こり、少腹に至り【原注:胞中から少腹に下り至ります】、すなわちかえって腰横骨囲の中央に行き【原注:陰上から腰に横たわり囲むところの骨を腰横骨囲といいます。陰毛際は俗にいう「いちのきざ」のことです。】、溺孔の端に繋がります【原注:これは婦人について述べているものです。詳しい内容は前に述べました。】。男子は莖下をめぐり【原注:陰茎の下をいいます】簒によります。女子は陰器を絡い、簒間に合し、ともに【原注:陰器を絡うというのは、二つに別れて絡います。ですから簒間にて両経がともに合し】簒後の屏翳穴をめぐり【原注:前陰と後陰との間です。屏翳の穴とは、会陰穴のことをいいます。】別れて臀部をめぐり少陰と太陽の中絡とに至り、少陰の股の内廉に上り合し【原注:以上に関する詳しい説明は前にしています】、会陽により【原注:陰尾尻骨の両方の陥中にあります。合わせて二穴。足の太陽の穴です。】脊を貫いて長強穴に会します。骶骨の端にあり【原注:陰尾・尻骨・骶骨はともに亀の尾の別名です。】、少陰と会し【原注:長強で足の少陰と会します】、脊裏に並んで【原注:長強から脊の裏に並んで行きます】上行し、腰兪【原注:二十一椎下】・陽関【原注:十六椎下】・命門【原注:十四椎下】・懸枢【原注:十三椎下】・脊中【原注:十一椎下】・中枢【原注:十椎下】・筋縮【原注:九椎下】・至陽【原注:七椎下】・霊台【原注:六椎下】・神道【原注:五椎下】・身柱【原注:三椎下】・陶道【原注:大椎の下】をへて、大椎【原注:一椎の上】で手足の三陽と会合し、唖門【原注:頭後の髪際を入ること五分】に上って、陽維に会し、入りて舌本に繋がり【原注:唖門の位置で深く入って舌本に繋がり】、上って風府【原注:項の後の髪際を入ること一寸、大筋の中、宛々たる中にあります】に至り、足の太陽陽維に会し、同じく脳中に入り【原注:風府と唖門の間で脳中に入ります】、脳戸【原注:枕骨の上にあります】・強間【原注:百会の後ろ三寸】・後頂【原注:百会の後ろ二寸半】をめぐり、巓に上って百会【原注:項〔伴注:頭の誤りか〕の中央旋毛中】・前頂【原注:百会の前一寸半】・顖会【原注:百会の前三寸すなわち顖会】・上星【原注:顖会の前一寸】をへて、神庭【原注:顖会の前二寸直ちに鼻上の髪際を入ること五分】に至り、足の太陽と督脉との会となり、額中をめぐり、鼻中に至り、素髎【原注:鼻梁の頭です】・水溝【原注:すなわち人中】をへ、手足の陽明と会し、兌端【原注:唇の上端にあります】に至り、齦交【原注:上歯の縫中】に入り、任脉・足の陽明と交会して終ります。【原注:《気府論》では、齦交穴を任脉の発する所としています。そのため李氏もこのように、齦交に入って任脉と交会すると述べています。】全部で三十一穴。




督脉の別絡で、長強より任脉に走るものは、



【原注:以下は、李時珍が《内経》の諸篇を深く理解して、督脉の行く所の度を尽しているものです。けれども、小腹から上るものはすなわち任脉です。その別れて項を下り脊を挟んで下行するものはすなわち足の太陽の流れです。これらはともに、任脉と足の太陽とに合して、督脉の別絡としているもので、本経ではありません。 】




小腹より直ちに上って臍の中央を貫き、心を貫き、喉に入り、頤に上り、唇を環り、上って両目の下の中央につながり、【原注:以上はすなわち任脉の行路です。督脉のところで語られているのは、一源三岐であるためです。】目の内眥の睛明穴で太陽に会し、【原注:陰蹻の下にみえる】額に上って、足の厥陰と同じく巓に会し【原注:百会穴で会します】、入って脳を絡います。




さらに別れて、脳から項に下り、肩甲をめぐり【原注:膏肓穴の左右にある二つの片骨を肩甲といいます】、手足の太陽少陰とともに【原注:手足の太陽と会すると考えるべきでしょう。少陰と会するということの意味は不明です。】大杼において会します。第一椎下の両傍で、脊中【原注:この中の文字は誤りであろうと思います】を去ること一寸五分の陥中です。内に脊を挟んで腰中に抵り、入って膂をめぐり腎を絡います。



【原注:以上は太陽の行路です。督脉において述べられている理由は、前に引用している《骨空論》の中に、督脉は少陰と巨陽の中絡とともに至るという文言があるためです。以前の注を参考にしてください。


ある人が聞きました。経に、少陰と巨陽の中絡とともに至るとあります。にもかかわらず先生が、少陰と会するという意味は不明です言われているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。内経に、少陰に至るとあるのは、足の少陰経の股内から長強穴に入るものと合することを述べているものです。けれども李時珍はそうではありません。肩甲をめぐって手足の太陽・少陰とともに会するとしているのです。肩甲は、足の太陽膀胱・手の太陽小腸の二経の行くところですが、どうして手の少陰心経・足の少陰腎経が行き、ここに流れて会するとしているのでしょうか。あなたはこれをどう考えますか。 】







王海蔵が曰く。任脉・督脉は同じく中極の下に起こってすなわち水溝で互いに接します。



【原注:この説は誤りである疑いがあります。任脉が水溝で会するということについてまだ明らかにはなっていません。

王海蔵はこの言葉で何を言おうとしたのでしょうか。水溝は督脉の本穴です。任脉が上って唇口をめぐり目の下に繋がります。その左の口吻(くちわき)から上るものは右に行き、右の口吻から上るものは左に行きますから、水溝穴で左右が入れ違って督脉と任脉とが互いに接すると考えたのでしょう。

けれども経に、水溝穴を任脉に数えず、《気府論》に、齦交の穴を任脉に数えていることから、任脉が上って唇口をめぐり両目の下に繋がる際、齦交穴で左右入れ違って目の下に出るのだということは明らかです。ですから、齦交と名づけられているのです。その穴は(はぐき)に位置し、任脉・督脉の脉の交わる位置にあります。

李瀕湖の《奇経八脉考》には、奇経を仙家・丹術まで含めて詳論されていますけれども、これらは常人が至ることのできない、道家の至真の義です。ですから今、これを略します。 】







《霊枢脉度篇》に曰く。督脉・任脉はそれぞれ四尺五寸。

《十四経発揮》に曰く。督脉は頭から脊骨をめぐり骶に入ります。長さは四尺五寸。



【原注:督脉が、齦交穴から頭中を経て、脊骨をめぐり、尾骶骨の長強穴に入るまで、その経の長さが四尺五寸という意味です。


ある人が聞いて言いました。督脉は会陰からわかれて長強に上行します。にもかかわらずどうして滑伯仁は、頭から脊骨をめぐると述べ、あたかも下行するものであるかのように述べているのでしょうか。

答えて曰く。これは脉度を語る際の法則です。経脉の終始に拘らずにその経脉の長短の長さを「量」るため、経脉の流れの始まりと終りに拘わらず頭から順に「度」り、ただその尺寸だけを明らかにしています。拘わる必要はありません。 】










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