蹻脉は瞋瞑します




《脉度篇》に曰く。陽蹻は上行します。気が并さってともに還るときは、目を濡し、気が営さないときは目が合いません。



【原注:陽蹻は上行するとあるのは、陽蹻脉も陰蹻脉もともに跟中に起こり、外踝をめぐって上行するという文章から、脱簡があってこのようになっているのではないかと思います。そのため、滑伯仁は《十四経発揮》でこの文を書き改め、両足の蹻脉はもともと太陽の別です。太陽に合してその気が上行し、気が并さってともに還るときは、目を濡し、気が営さないときは、目が合いません。としています。

つまり、両足の蹻脉は足跟の中に起こって、もともと足の太陽の別脉です。このため、陽蹻脉が足跟の中に起こって、足の太陽膀胱経と合して、外踝をめぐって上行し、目の内眥、睛明穴で陰蹻脉と合します。そのため陰陽両蹻脉の血気がともに并さり、よくともに還るときは、血気がその目を濡すことができます。もし陰陽二蹻脉の気血がその目を栄養することができなければ、目が合わなくなるという症状を呈します。

そもそも人の目が見開かれるという事は、陽蹻の気によるものです。目を閉じるものは陰蹻の気によるものです。衛気の行路としては、昼は足の太陽経に始まって諸陽経を行き、夜は足の少陰に始まって諸陰経を行きます。陽蹻はもともと足の太陽の別であり、陰蹻はもともと足の少陰の別です。二蹻はともに目の内眥に属します。そのため、平旦になると衛気の行路が陰経を終わって陽経に行きはじめ、陽蹻の気が盛んとなって目を見開き、夜になると衛気の行路が陽経を終わって陰経に行きはじめ、陰蹻の気が盛んとなって瞑目しようとします。

病によって、同じように、陽蹻の気が太過となり陰蹻の気が不及となると、夜の陰においても瞑目しにくくなり、陰蹻の気が太過となり陽蹻の気が不及となると、昼間であっても目を見開きにくくなります。この内容は下文に記載しているとおりです。 】







《霊枢・寒熱病篇》に曰く。陰蹻と陽蹻との陰陽が互いに交わり、



【原注:陰陽の二蹻脉は、起こるところも跟中に交わり発しており、終わるところもまた目の内眥で交わり尽します。このため、陰陽が交わると述べています。下文に目の鋭眥に交わるとあるのは、この文言の釈文です。】




陽は陰に入り、陰は陽に出て、目の鋭眥に交わり、



【原注: 「鋭」は「内」の字の誤りであると思います。《繆刺篇》に、陽蹻の脉は目を痛ませ、内眥から始まりますと述べています。これがその根拠です。

つまり、陽蹻の気は陰蹻に入り、陰蹻の気は陽蹻に出、その出入交通する場所は目の内眥の睛明の分であるということです。 】




陽気が盛んであれば目を瞋き〔伴注:見開き〕、陰気が盛んであれば目瞑します。



【原注: 陽蹻の気が盛んであれば陰気が営されないため、目を見開いて合わせることができません。陰蹻の気が盛んであれば陽気が営されないため、瞑目して開くことができません。

これは、平人における昼夜の瞋瞑を述べているものです。また病んで瞋きにくく瞑しにくいときも同じです。また、少壮の人は、営衛がその常を失わないので、昼間は陽蹻の気が盛んでその気も精であり、目を見開きます。夜は陰蹻の気が盛んでよく瞑します。老衰の人は、気血が衰えて営衛の流れがその常を失います。そのため昼であっても陽蹻の気が盛んにならず、その気が精ではないので暝します。夜になっても陰蹻の気が盛んにならないので暝することができません。《霊枢・営衛生会篇》をよく読んでこれを理解してください。 】







《霊枢・口問篇》に曰く。陽気が尽き【原注:陽蹻の気が陽分からことごとく離れ】、陰気【原注:陰蹻の気】が盛んなときは、目暝します。陰気が尽き【原注:陰蹻の気が陰分をことごとく離れ】、陽気【原注:陽蹻の気】が盛んなときは、寤ます。



【原注:この意味は、詳しく上に著してあります】







《甲乙経》に曰く。目を病んで、暝することができないものは、衛気が陰に入ることができずに常に陽に留まっています。陽に留まれば、陽気が満ち、陽気が満ちていれば、陽蹻の気が盛んで陰に入ることができず、陰気が虚します。そのため目を暝することができないのです。



【原注: これはすべて、前に引用した《寒熱病篇》と《口問篇》の内容に従って述べているものです。


ある人が聞いて言いました。蹻脉は目の開閉を主るということですが、これで言い尽くされているのでしょうか。

答えて曰く。《内経》《難経》および古今の明哲それぞれに眼目の開闔を論じている言葉があります。その言葉は、二蹻にまでは触れていませんけれども、陰陽を離れることはありません。陰陽営衛の盛衰があるときには、陰陽二蹻の盛衰があるということは当然のことです。ですから、言葉としては蹻脉に触れていないとしても、理論としてはこれを包含しているものです。


李瀕湖は述べています。《霊枢》に、足の太陽の筋は目の上網(うわまぶた)になります。足の陽明の筋は目の下網となります、と述べられています。寒する時は筋が急して(ひきつり)目が合わず、熱する時は筋が(ゆる)んで目が開きません。

また述べています。壮者は血気が盛んなので肌肉が滑らかで、営衛がその常を失うことがありません。そのため、昼は精に(くわしく)して、夜は瞑します。老人は気血が衰え気道〔伴注:気の流れる道〕が渋りますので、衛気が内に伐られています。そのため、昼精ではなく、夜瞑することがありません。

また述べています。多く臥す者は、腸胃が大きく皮膚渋り分肉が解していません。衛気の流れが遅いためです。


張子和が述べています。思気が極まると〔伴注:憂愁思慮しすぎると〕、眠らなくなったり嗜眠になったりします。


巣元方が述べています。脾が病むと困倦して嗜眠となります。胆が病むと煩して眠れなくなります。


王叔和がその《脉経》で述べています。水の流れが夜に疾くなり音がするのは、衛気が休むためです。人もまたこれに応じ、人が夜臥すときは、脾が動揺せず、脉は数疾となります。


一つ述べられていることに、脾の候は瞼にあります。瞼が動くときは脾がよく消化できているとみます。脾が病むときは、瞼も渋り嗜眠となります。とあります。


これらの数々の説はすべて目を開き目を見開かないということについて述べながら、言葉としては二蹻まで論じてはいません。けれども陰陽・営衛・虚実の概念から離れてはいません。相互に参考すべきところでしょう。 】










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