殷は商ともいいます。商いを始めた民族で、
周王朝成立以前の時代の最後の王である周の文王は、殷の
文王の子である
周の国力は衰えていましたが、覇者となった強国が周を立てて国家の秩序を保とうとした時代です。
国境は明確とはなっておらず、城壁に囲まれた都市が結びついて国を形成していました。また有力な王が都市を部下に下賜する(封ずる)こともありました。
周の国力がさらに衰え、群雄が割據し始めた頃で、国境が明確になってきます。春秋時代のような都市国家としての点ではなく、線や面として場(国)を把えるようになったわけです。これは経穴学の集積から経絡さらには臓腑経絡といった場として人間を観ていくという、人間観の転換にも資するものとなったことでしょう。
老子:(紀元前500年頃)道家の祖
孔子:(紀元前551年~紀元前479年)儒家の祖
曽子:(紀元前506年~?)孔子の甥で孝経を重んじました
子思:(紀元前483年?~紀元前402年?)孔子の孫
天津歴史博物館に所蔵されている玉器。《行気玉佩銘》〔注:《行気玉器銘》とも呼ばれる〕には、 「行気、深則蓄、蓄則伸、伸則下、下則定、定則固、固則萌、萌則長、長則退、退則天、天几春在上、地几春在下、順則生、逆則死」 という文字が刻まれています。
〔伴解釈:気のめぐり方というものは、深ければ蓄り(冬)、蓄れば伸び(春)、伸びれば下り(夏)、下れば定まり(秋)、定まれば固まる(冬)、固まれば明らかであり(覚醒)、明らかであれば長じ(人の上に立つことができる)、長ずれば退く(人の上に立つということは自身を押し出すことではなく一歩を譲ることすなわち大きな器に変化することである)、退けば天となり(退くことができて初めて天命を受けることができる、すなわち王となりうる)。天機の春は上にあり(風あるいは枝)、地機の春は下にある(萌あるいは根)。順であれば生き、逆すれば死ぬ。(上なる天下なる地の交流、気の流れに順(したが)っていればうまくいくが、それに逆(さか)らえばうまくいくことはない)〕
劉少奇はこれをもって支那における内丹の始まりであるかのように述べていますが、間違いです。
春秋戦国の際で触れた
孟子:(紀元前372年?~紀元前289年)《孟子》〈
荘子:(紀元前4世紀頃)《荘子》〈大宗師篇〉には
荀子:(紀元前313年?~紀元前238年?)
度量衡を全国で統一するため、焚書坑儒を行いました。
非常に厳しい専制政治だったため、一代で崩壊しました。
秦の始皇帝は徐福を使わして、神秘の島である蓬莱山に不老長寿の薬を取りに行かせました。日本各地にも徐福がやってきたという伝説が残っています。秦の始皇帝のこの情熱が庶民の間にも影響を与えることとなります。それが仙人伝説を作り上げ、さらには仙人となる方法の研究となって、内丹法として漢代末期に結実していきます。登仙とその技法としての内丹の研究がまた、本草学を深め広めていく契機ともなります。
公乗陽慶七十余歳(紀元前180年)の時に、淳于意(前216~154年?)に書を授けました。これが《黄帝内経》の大本となる書物なのかは不明です。けれどもこのような形で医学の伝承が行われ、それは歴史の一ページとして残っているということは大切なことです。
武帝(紀元前156年~紀元前87年:漢王朝が成立して以降60年間全盛を極めていた黄老道を抑圧し、儒教を重用しました。またその晩年には武帝の庇護により神仙道が隆盛となりました。黄老道を抑圧した武帝が神仙道の大ファンであったという事実は、当時の思想界においては黄老道と神仙道とが結びついてはいなかったと理解することができます。この時期が前漢の最盛期となります)
《
《春秋繁露》
司馬遷(紀元前145年~紀元前86年)〔注:《史記》の編纂をする:董仲舒の弟子〕
《黄帝内経》の冒頭には黄帝が神仙の類となって登仙するという記述があります。けれども、その内容には護符や呪術が含まれていないことから考えると、この武帝期の黄老道の学者が中心となってそれまで伝承されてきた医学を《黄帝内経》としてまとめたのではないかと考えられます。冒頭で武帝の神仙好きに媚びを売りながら、内容は粛々と医について述べ、先秦時代からの医学の蓄積をまとめ残しているわけです。天下国家を一元の気の中で陰陽五行を通じて見通していた黄老道が、武帝の抑圧によって内省的なものへと転化し、それまでの医学技術をまとめたものとも考えられます。これが時代を下って後漢に入り、ほぼ200年をかけて徐々に整理されて、《素問》《霊枢》となりました。(《気流れる身体》石田秀実著:平河出版社)
《黄帝内経》の人間観では、もっとも重要な身体の中心として「気海丹田」を把えてはいません。このことは、命門が《黄帝内経》においては目のことを指しており、仏教が伝来した後の後漢において作成された《難経》に至って初めて臍下丹田のことを命門と呼ぶようになったという、おそらくはここに大きな身体観の変化が存在したということからも明らかです。気海丹田を中心とする発想はおそらく、インドで発生した修験道―仏教の修行体験から出たものでしょう。
戦国時代の中国医学の一部にインド医学が関係したということを加納喜光氏はその《中国医学の誕生》〔東京大学出版会刊行〕で述べています。この説はインド外科学における釈迦の弟子の耆婆の技術が戦国時代にすでに伝来していたのではないかという仮説に基づいて述べられているものです。黄老道とそれの医学的な表現としての《黄帝内経》には臍下丹田の中心概念がないことから、ここには仏教の影響はまだないと考えられます。前漢時代に編纂されている《黄帝内経》より以前、戦国時代にすでにインド医学が伝わっていたとする加納氏のこの説は、医学技術の伝播が宗教的な身体観より先んずるということを意味するものであり、にわかに納得できません。
《漢書:
仏教の中国伝来については元寿元年(紀元前2年)に月氏を通じて『
皇帝王莽(紀元前45年~紀元23年)による急激な儒教回帰(周制度への回帰)に、当時すでに周代とはまったく異なるシステムへと発展していた国民経済の秩序がついていけませんでした。また、国威昂揚のために無理な外征を繰り返したため、国内経済および人的な資産が疲弊したため、一代で崩壊してしまいました。
前漢末期の2年の記録では5767万だった人口が、外征と内乱によって後漢初めの57年には2100万人にまで激減しています。
漢を再興した光武帝は、孝経を中心とした儒教を基軸として、帝国の精神的な立て直しを図りました。また讖緯学説を利用して、自らの権威付けをしました。すなわち天命を再度受け取ったとして後漢帝国を打ち立てたわけです。(《後漢・魏代における天・人思想の展開》:好並隆司)これによって讖緯学説は神秘性を強め、漢代末期の道教の教えの柱の一つとなります。
劉英:(楚王英:~71年)光武帝の三男:仏教と黄老道を信仰していた「楚王は、黄老(=黄帝・老子)の微言を誦して、浮屠(=仏教)の仁祠を尚ぶ。潔斎すること三月にして、神と誓を為す。何ぞ嫌(うたが)わん、何ぞ疑わん。当に悔吝有るべし。其れ贖を還し以って伊蒲塞(=優婆塞)・桑門(=沙門)の盛饌を助けしめん」(『後漢書』巻42、楚王英伝)
《明堂経》紀元後92年に書かれました。
原《黄帝内経》が《素問》《鍼経》(《霊枢》)の形となりました。(紀元後120年頃)
この頃《難経》が書かれました。
華佗:(?~208年)曹操の侍医で、曹操からの呼び出しに遅れたため殺されます。《難経》は華佗の手を経て後世に伝えられました。
張仲景:(150年?~219年)後漢末の戦乱と疫病によって親族の7割以上が死んでしまったことに発憤して、《傷寒論》《金匱要略》(200年頃書かれ10年ほどで散逸)を著しました。その際《難経》や《素問》《霊枢》を参考にしたと序文にあります。
道教という言葉は、現代のいわゆる道教を指してもいますが、また仏教を指し、儒教を指したりもしました。すなわち道教とはその言葉の通り、道を求める人々に対して指針を与える教えという意味を当時持っていたわけです。(《老子・荘子》森三樹三郎著:講談社学術文庫)
538年 百済の聖明王が大和朝廷に釈迦像と経典を献上したことをもって仏教の伝来とされています。けれども実際にはそれより前に、百済などから徐々に伝来していたと思われます。
大和時代の初期から759年にかけて読まれた歌集が《万葉集》としてまとめられています。
587年 仏教を捧持する蘇我氏と神道を捧持する物部氏とが対立しました。聖徳太子(574年~622年)が蘇我氏側につき、物部氏は暗殺されました。これによって、仏教は政治的な指導力を得ます。また、大和朝廷を中心とした中央集権政治が進展していきます。
645年 大化の改新:聖徳太子が帰幽した後、専制的な権力を得ていた蘇我氏が討たれ、天皇中心の政治が確立していきます。
天台大師:(538年~597年)仏教経典を系統的に整理しました。天台宗の祖。比叡山延暦寺の天台宗に継承されている。禅の修法についての著書を残しています。《普勸座禅義》《天台小止観》
楊上善:黄帝内経太素の編纂終わる(7世紀初頭)
孫思邈:(581年?~682年?)千金方
王冰:762年素問次註本の編纂終わる
遣唐使によってもたらされた南都六宗は、国家鎮護を目的とした学者集団のようなものでした。国家に保護され、援助を受けていました。
伝教大師最澄(766年~822年)比叡山延暦寺の天台宗の祖。
弘法大師空海(774年~835年)高野山金剛峯寺の真言宗の祖。
これ以降、現代に至るまで連綿と、臍下丹田を中心とした身体観を基本とした医学思想・養生思想・武道思想が日本において継承されていきます。
これは室町時代の末期には腹診法の確立として結実し、江戸時代の中期には臨済宗の中興の祖である白隠によって養生法として結実しました。
さらにこの生命観の流れは、明治維新を越えて大正時代に至るまで、呼吸法や正座法という形で開発され、日本国民の身体観を形成し、体質および精神の健康の向上に寄与しました。
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