黄老道とは何か





漢代の初期、黄老道は、思想界のみならず政界をも支配していました。このため黄老道は政治術を説いたものであると考えられてきました。その政治術とは、無為にして治めるというもので、儒教において孔子が説いた王道思想をさらに柔軟にしたものです。

この時代に黄老道が称揚された理由の中には、秦代において法家による厳格な締め付けが行われていたことに対する反発がありました。いわば時代的な要請という側面もあったわけです。この自由放任の治世は、漢の文帝をはじめとしてその妻の竇太后の強力な支持を背景として、五代武帝の六年(紀元前135年)に竇太后が亡くなるまで、70年あまりも続きました。

黄老道は後に述べるように一人の思想家が作り上げたものではなく、春秋戦国時代を通じて支那大陸の諸民族が創りあげた大いなる遺産のひとつです。前漢の武帝の時代にその政治的な主流の座を儒教に譲り、徐々に神仙説や讖緯学説と結びつき、『太平経』を経て後漢の末期には道教を形成する基本思想となりました。







黄老道は、

・その思想が時代によって変化し、あたかも雑学のような状態ともなっている。

・基礎的な文献が判然とせず、黄帝の名前そのものが『詩経』や『書経』などの古い文献や『論語』や『孟子』などの戦国時代中期の書物にもみられず、戦国末になって初めてみることができたものであるため、尭や舜を古代の聖王として自身の思想の淵源を求めた儒教に対抗して、より古い聖王として作られたのではないかという疑念を後代持たれた。(実際には儒教よりもその起源は古いことは「黄老道の起源と系譜」で解説しています)

・後漢の末期に道教に取り入れられ、道教思想の淵源の一つとなったため、神仙説や讖緯学説などの大衆の迷信としての宗教と混同され同一視されるようになった。

といったことなどから、儒教優勢の理性的な学問界からは軽視されて、従来あまり研究対象とされてきませんでした。

ところが1973年、長沙馬王堆の漢墓から帛書が発掘され、その内二種類の『老子』の写本の他の『経法』『十大経』『称』『道原』という四種類の古佚書が、漢初に大流行した黄老道関係の著作であることが明らかとなりました。

これによって、それまで『黄老道』関係と思われいた書籍、『国語:越語下篇』『老子』『管子:勢篇』等との比較研究がされることとなってこの、黄老道の起源がかなり古いということが明らかにされました。〔浅野祐一《黄老道の研究》〕







さて、東洋医学の原典である《黄帝内経》は、その名の示すとおり、この「黄老道」を基軸としてそれまでの医学思想がまとめられたものです。ただし、その内容においては、黄帝の登仙については触れていますけれども、讖緯学説や仙人となる方法について触れられているものではなく、体表観察に基づいてあるいは身体の深部感覚に基づいて汲み上げられた身体観を、黄老道の宇宙観に沿ってまとめられているものです。ということは、後漢において神仙道や讖緯学説 と結びつくよりも早い時期の黄老道の思想によって、その当時の医学思想がまとめられたものとみてよいでしょう。

「黄老道」とは、外的な物事の認識に関しては、天と人との間に相関関係があるという発想を基礎とし、世界を陰陽五行の運動で分析し理解しようとするものです。また内的には清虚無為自然のいわゆる「恬憺虚無なれば真気これに従う」というありのままの自然体を重んじる考え方を基礎としています。









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