黄帝内経と難経





東洋医学の基本文献である《黄帝内経》は、この黄老道を中軸としてそれまでの医学思想がまとめられたものです。巫呪や讖緯の説に触れられてはいないことや文体、そして《史記》に紹介されていないことなどから、〈運気七篇〉を除く『さまざまな書が《黄帝内経》の名のもとにまとめられた年代は、前八六年頃から前二六年頃までのわずか六〇年ほどの間の出来事だったということになり』〔石田秀実著《中国医学思想史》114ページ〕ます。

これに対して《難経》は、おそらくは当時存在していたもともとの《黄帝内経》であろう引用経典があることや陰陽五行の機械的な使用法が成熟した形で述べられていることなどから、《黄帝内経》が編纂された後の後漢中期以降に作成されたものであると考えられます。

そして、遅くとも後漢末までには成立していたということは、《傷寒論》に《難経》を参考としたという記載があること、華佗が《難経》を秘伝の書として大切にしていたという記載が《三国志》と《後漢書》に述べられていること、呂広による《難経》の注がある(239年)ことなどから明らかです。

また、江戸時代末期の丹波元胤はその《医籍考》で、内容的な側面から『《八十一難経》は、《素問》《霊枢》と比べるとその語気が少し弱くいので、後漢以降の人によるものと思われます。その記されているところのものにも、当時の言葉があります。元気という言葉は、董仲舒(紀元前176年?~紀元前104年?)の《春秋繁露》で初めて述べられていますが、後漢になってよく用いられている言葉です。男は寅に生まれ、女は申に生まれるという言葉は、《説文》の包字註、高誘(生没年不詳:200年頃に活躍)の《淮南子》註、《離騒章句》(後漢:王逸の書)に載っています。木が沈み金が浮かぶという言葉は《白虎通》(79年)に出ており、金が巳に生まれ水が申に生まれるとか、南方の火を瀉し北方の水を補うといった類の言葉は、五行緯学説家の説であり、《素》《霊》では言及されていない、特にこの経にみられるものです。また、この経の診脉の方法は三部に分かつもので、簡単でわかりやすいものであり、張仲景や王叔和の輩がともにこれを用いましたので、医家においては不磨(ふま)の矜式(きょうしき)〔注:犯す事のできない手本〕となっています。けれどもこれを《素》《霊》に照らしてみると異なり、倉公の診藉にもまた合いません。古法の隠奥を想像してみても理解しにくいものなのです。おそらく後漢に至って、あるいはひそかにその術を伝えたものが、《素問》に三部九候という言葉があることを手本にしてまねて、これを敷衍して一家の言となしたものでしょう。これが決して前漢時代の文ではないことはこのことからも見て取れることができます。』と述べています。

これなども《難経》が後漢の中期以降に書かれたものであることを示唆している資料となっています。







さて、この《難経》が書かれた時代は、どのような風景をもっていたのでしょうか。インターネット上の辞書である《wikipedia》から引用しておきましょう。

『前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。前漢末期の2年の記録が人口5767万だったものが、後漢初めの57年には2100万にまで激減しています。その後は徐々に回復し、100年後の157年には5648万にまで回復していますが、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して、西晋が統一した280年には1616万という数字になっています。動乱の途中ではこれより少なかったわけです。

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられます(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われています)。

とは言っても激減であることは確かであり、再び中国の人口が6000万の水準に戻るのは北宋まで待たねばなりません(ただし6000万足らずが当時の中国の人口の限界点であったとも考えられます)。

このように人口の激減があったことを後漢初期と末期の政治・経済について考える時は忘れてはなりません。』〈2010年7月10日引用〉







また、その思想状況については同じく《wikipedia》によくまとめられています。

『前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとした。郷挙里選の科目の中でも孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視した。また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。

また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。

その一方で後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でもそれら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想もこの時期に形成されたようである。

中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には浮屠(ふと)と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。

仏教の無の概念を理解するに当たり、中国人の窓口となったのが老荘思想の無為である。その結果として仏教は老荘の影響を受けて変質したようであり、また老荘の方も仏教に刺激を受けて道教教団の成立が行われることになる。

第11代桓帝(かんてい、132年 - 167年、在位:146年 - 167年)は道教に傾倒したことで有名であり、老子の祭祀を何度も行っている。仏教と同じく社会不安と共に信者が増えていき、太平道と五斗米道の2つの教団が作られた。これらの教団は民間の病気治療などを行うことで信者を集め、五斗米道は義舎と呼ばれる建物を建てて中には食料が置かれており、宿泊を無料で行うことが出来たという。

宦官の専横を主たる要因として黄巾の乱(184年)がおこり、太平道の組織は瓦解するが、しかし信者が消滅したわけではなく例えば曹操の青州軍など各地の群雄の中に吸収されていった。これ以後三国志の時代につながっていく。五斗米道は後漢が滅びた後も長く続き、後の正一教となり、台湾に渡って現在も存続している。』









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