丹田の概念は仏教に由来する





石田秀実氏は、《難経》における『奇経八脉と三焦の明確化は、前漢末から後漢をへて六朝にいたる道教徒たちの身体認識と、おそらくどこかで連結している。奇経中の任督二脈を陰陽二気を統べるものとして重視し、「腎間の動気」「原(元)気」の場としての下丹田を重視する道教徒の身体技法は、『難経』における臓腑システムの展開と呼応するものだからである。この時代が、仏教を中心とする西方の秘教的身体認識の流入時期であることも、医学と道教――これらは不即不離のものである――における展開と、どこかで関係しているにちがいない。』(中国医学思想史170ページ)と著されています。当時の文献が残っているわけではないので、その証明は甚だ難しいため、このように述べるしかないわけです。

前漢末から後漢に至る支那大陸における医学思想は、道教のもととなる黄老道をその中心とします。黄老道の思想を一言で言うと、天と人とを対応関係として把え、天をよく見ることで人の運命がわかるという考え方に基づいて発展した天文学と、天地を分析的に解釈するための道具としての陰陽五行論とが組み合わさったものです。その思想―人間観に基づいて体表観察などをして得た情報を分析し、人の身体を捉えなおしていったものが、『黄帝内経』という東洋医学の基本経典として結実しているわけです。







さて、前漢の末期にまとめられたこの《黄帝内経》において「命門」は目に位置づけられています。これに対して後漢の中期以降に作られた《難経》において「命門」は腎に位置づけられています。〔注:左腎右命門と記載されていますが、これについて《難経鉄鑑》では『腎にはもともと左右の区別などなく、人道は右を尊び左を卑しいものとするため、左右という字を置いているだけで、実際にはひとつを腎としもうひとつを命門とすると説明していることと変わりない。』と解釈しており、私もそれを支持しています〕

「命門」と名づけられているもっとも大切にすべき場所が、目から臍下丹田に移動しているということはどういうことなのでしょうか。これは、意識の中心を置く位置が、目から臍下に移動していることを示しています。ここにおいて《黄帝内経》と《難経》の間でその身体観が大きく変化していると考えなければなりません。すなわちここには実は、医学の背景となる人間観の大きな変化があったことがわかります。







すなわち《黄帝内経》の医学思想の背景にあるのは黄老道の実践体験に基づいているのに対して、『難経』は仏教の実践体験に基づいて書かれたと推測されるわけです。仏教思想における身体観である生命の中心を臍下丹田に帰す体験をもとに、それまでの医学思想を書き換えていったものが《難経》なのではないかと考えられるわけです。奇しくも『難経』が書かれたと同じ時代に道教も発生しています。これも仏教の大いなる教義に対する土俗の者たちの危機感が、それまでに存在していた自身の宗教思想を守るために体系的な教義を定め教団として組織したものであると考えられるのです。

《黄帝内経》と《難経》との間にはその中核となる人間観の違いが明確に存在しています。ですから『難経』が単に『黄帝内経』における難しく解釈しにくいところを解き明かした書物なのではなく、これ以降道教においても盛んとなる内丹の走りとして、臍下丹田を重視する仏教的な身体観を得た《難経》の作者が、それまでの医学思想を新たな身体観に基づいて記述し直したものであると考えることができるわけです。









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