まとめ


中医学大交流会鍼灸部会 講演記録



人は中心を持つ気一元の統一体



気一元の観点から進めていく弁証論治には、多くの矛盾が出やすいものです。几帳面な人ほど無理にでもつじつまを合わせようとします。しかし、自然に整合性が取れていくよう、ゆとりをもって見守ることが大切です。

どこに問題があるのかということを認識することができれば、答えはおのずから沸いてきます。

問題を認識するためには、東洋医学的な生命観への理解が大切になります。一元流鍼灸術では、《難経》と江戸時代の生命観を中心に据えています。

臍下丹田が中心 これがいわゆる腎間の動気

《難経》六十六難は三焦を通じた腎間の動気が全身に充満する様子を表したもの

『三焦は原気の別使』

『臍下腎間の動気は人の生命であり、十二経の根本』

《難経》ではこのように人間を把握していました。

澤田健先生が称えられた江戸中期の《難経》の解説書の《難経鉄鑑》には、「《難経》は元気を説いた書物である」と語られています。



『難経』六十六難の図



《難経》の六十六難には、原穴が、生命力の中心である腎間の動気の表われであると述べられています。

経穴というとただ一点を探ろうとするわけですけれども、その際にこの五行穴の位置づけのような、流れの中での一点としての発想を得ることができます。

経穴という一点を探すだけでなく、筋や腱などの「面のアンバランス」を探る中から、そのアンバランスを引き起こしている一点を探るという考え方が開けてくるわけです。

六十六難の図

《難経鉄鑑》では、この六十六難を一枚の図で表現しています。それがこの腎間の動気と三焦と原穴とを関連づけた図です。

下焦から一元の生命力が発条し、伸びていき、これが体腔である三焦に充満し、その姿が原穴に顕われている。このことが描かれています。

左には、三焦は原気の別使と書かれており、右には三気すなわち三焦の気を通行して五臓六腑を経歴すると書かれています。

この大本は下の「原」すなわち人の生命そのものである、腎間の動気。すなわち十二経の根です。ここが大本です。

原穴を意味する上の「原」の左には三焦の尊号と書かれ、右には三焦の行るところの兪と書かれています。原穴の原は三焦の尊号であり、原穴は三焦が行るところの兪穴であるということです。

これがいわゆる、『三焦は原気の別使』『臍下腎間の動気は人の生命であり、十二経の根本』という言葉の本体です。これが基礎の基礎。《難経》の作者が最も伝えたかったことです。

一元の気によって構成されているこの人間の身体は、実は中心を持っている。その中心こそが腎間の動気であり、臍下丹田にまさしく位置するものである、と。

このような「中心を持つ気一元の人間観」は、現代にも通用する考え方です。治療においてはこの中心を充実させることを考え、鍛錬においてはこの中心を鍛えることを機軸とする。臍下丹田の定めこそ、まず第一に押さえておかなければならない基本であると言えます。



行灯の図



行灯の図

この絵図は、江戸時代中期の管鍼法の創始者である杉山和一作である《杉山流三部書》の〈医学節用集:先天〉というところに書かれている図です。

これは行灯(あんどん)です。胴の長い四角柱の明かり取りを思い浮かべてください。一番てっぺんには蓋がされており、これが華蓋すなわち肺に形容されています。そして行灯は三層に分けられておりまして、一番上が上焦、真ん中が中焦、一番下が下焦に割り当てられています。

この下焦の部分のごちゃごちゃしているこれは、行灯の明かりの基となる火です。火は油を必要とします。それによって長時間輝き続けるわけです。この油の部分が腎精、火の部分が命門の火です。この一点の火が輝くことによって行灯が全体として光を発するわけです。

《難経》には腎間の動気として紹介されているものがこの、一点の火。生命の中心となる腎の陽気です。

《医学節用集》にはまた、『腎間の動気を候うには、大体医師の手で臍下を診、先ず医師の気を鎮めて候っている手と心とを一体にして考えていくと理解することができる。』と書かれています。

『医師の気を鎮めて候っている手と心とを一体にして考えていく』という方法は、経穴診においてその生命力を診る際にも欠かすことのできない技法です。

これは「観る」ということを実際に工夫して行っている人のみが語れる言葉だと思います。



肝木を中心とした生命観



肝木は人の内なる小さな気一元の存在

肝には陰陽があり、

根を養うものが脾腎、

枝を養うものが心肺

これは、今述べた、日本的な身体観を少し五行的に置きなおしたもので、清代の末期に人身一小天地の論として発表されていたものをまとめたものです。書物は《医原》石寿棠の著作です。

病因病理を考えて弁証論治をしていくと、慢性病においては多くの場合脾虚・腎虚・肝欝という状態から悪循環を繰り返していることが見て取れます。これは現代人の型なのではないかとひそかに思っています。

後天の生命力である脾と、先天の生命力である腎という器が時代のスピードに追いつくことができないまま、肝気を張ってがんばっている状態であるともいえます。また逆に、肝気を張ってがんばり過ぎたために、脾腎の器が損傷されている状態を示しているとも言えます。

現代という、スピードの速いストレスの多い時代についていくには肝気を張ってがんばるしかない。古来からあまり大きな変化をしていない生命力の中心である脾腎の器は、それを支えるだけの力がなく疲れきっている。不健康の悪循環を生み出す社会システムがここにあるということもまた、このことは示していると言えます。

このような状況をうまく説明していくことのできる生命観が、「肝木を中心とした生命観」です。

肝木中心の図

肝木を中心とした生命観は、木〔注:肝〕が大地〔注:脾〕に根ざし水〔注:腎〕を吸い上げ天〔注:肺〕に枝を伸ばして太陽〔注:心〕を浴びている姿と相似しています。木はまた四季にしたがってその姿を変えますので、これもまた人間の生命を表現するにふさわしいものと考えられます。

中医学では肝木の暴虐がよく取り上げられていますけれども、肝木が枝葉根幹ともに充実していると、いわゆる肝気の暴虐は起こりにくいということはもっとよく理解されるべきでしょう。

上にも述べましたけれども、現代人において肝木が充実しているということは生活をしていく上で必要条件となっています。肝木が安定して充実していることによって、心肺脾腎の交流が守られ、心肺脾腎の充実によって、肝木としての身体の根幹もまたしっかりと充実した姿をあらわしていきます。

この社会からの保護者としての肝木の意義と、より大きな一本の木としての人体の有様をここに見て取ることができます。







はじめに

基礎概念

一元流鍼灸術の実際

基礎的な人間観

まとめ











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