2、営衛はどこから出るのか






営衛は後天の気の変化したもの



飲食物が胃に入り、その精微が肺に昇ることによってその粛降作用を受けて、五臓六腑を栄養し、その後に生じた気を静と動の観点から陰陽に分けて、これを営衛と呼ぶことにしたのだというところまできました。それではさて、営衛はそれぞれどこから二行に分かれるのでしょうか。それとも違う位置から出てくるのでしょうか。

営は中焦から出るということには異論は出ていません。《霊枢・経脉》の流注において「中焦から発し中焦に帰る」のはすなわちこの営の流れを記述してみたものと言えるわけです。

衛には、上焦から出るという説と下焦から出るという説の二説がありますので、これを検討してみましょう。

ここは長いので、目次を付しておきます

  衛は下焦に出るのか上焦に出るのか
  衛は上焦に出る説
  「衛は上焦に出る説」の批判
  馬蒔の論
  李東垣の営衛論
  衛は下焦に出る説
  結語




衛は下焦に出るのか上焦に出るのか



そもそも《霊枢・営衛生会》には『営は中焦から出、衛は下焦から出ます。』と明確に述べられていますので、なんだ、衛は下焦から出るのかと、素直に認め納得してもよさそうなものです。ところが、ここが一筋縄では行かない、これが古典の面白いところです。

この《霊枢・営衛生会》にある「下焦」の文字は、上焦の誤りであるとする説が、現代中医の定説になっていますので、その論拠をご紹介します。現代中医の《内難経三十論》から直接引用していますが、これは清代の張志聰の論法と同じです。《内難経三十論》の出典はたぶん張志聰なのでしょう。




衛は上焦に出る説



まず、 A:《霊枢・決気》にある『上焦が開き発せられ、五穀の味〔訳注:精微〕が発散されて、皮膚を温和にさせ、身体を充実させ、毛に艶を与えること、霧露が樹木を潤しているような状態のものを、気と呼びます』という文言、および B:《霊枢・癰疽》にある『腸胃が穀物を受け取ると、上焦が気を出し、分肉を温め、骨節を養い、腠理を通じさせます。』という文言が、衛気が備えている『分肉を温め、皮膚を充実させ、腠理を分厚くし、開闔を司ります。』《霊枢・本臓》という文言と一致するということがあげられています。このことから、『上焦が開き発せられ』るところの気が衛気であることは明らかであるというわけです。《内難経三十論》〈王志強 主編:中国中医薬出版社刊〉

さらに同書ではこれを基にして、 C:《霊枢・平人絶穀》の『上焦が気を発散させてその精微を出すようすは、慓悍滑疾です。』とある、気の慓悍滑疾という特徴が衛気のことを説明しているのであると断じています。

また、 D:《素問・調経論》の岐伯の言葉『陽は気を上焦に受けて、皮膚分肉の間を温めます。』とある気を、衛気として考え、衛気は上焦にあり陽気を供給するものであるとします。

これらを総合して、衛気が上焦に出ているということは明らかであると論理的に導き出しているわけです。







さらに校勘の根拠とされている古代の文献としては、

1、《太素》では、『衛は上焦に出る』となっている。

2、《千金要方・三焦脉論》でも『衛は上焦に出る』となっている。

3、《外台秘要・三焦脉病論》でも『衛は上焦に出る』となっている。

といったものが挙げられています。江戸時代末期の丹波元簡もその《霊枢識》で、この説は根拠のないものではないとしています。(ただし、丹波元簡は、注のはじめには張景岳の「衛気は下焦に出る」という解説を掲げています。両説を提起し、結論は後学に任せるという姿勢です。)

ということで、衛気は上焦に出るという説に立つものが多く出、現代中医の多くは、この下焦とあるのは上焦の誤りであるとする校勘に従い、訂正しています。




「衛は上焦に出る説」への批判



衛は上焦に出るという説の論拠として引用されている原文の一々について、ここで検討していきます。

A:《霊枢・決気》の『上焦が開き発せられ、五穀の味〔訳注:精微〕が発散されて、皮膚を温和にさせ、身体を充実させ、毛に艶を与えること、霧露が樹木を潤しているような状態のものを、気と呼びます』とある、この気を、衛気のことであると考えて論を進めているわけですが、これには前文があります。それは、


黄帝が言われました。人には精気津液血脉があると私は聞いたことがあります。気が一つだけあるだけだと私は思います。ここではそれを六種の名前をつけて分けて解釈しているわけですけれども、その理由がわかりません。

岐伯が答えて言いました。両神が相い搏ち合わさって形が成立します。常に身に先んじて生じるものを精といいます。

何を気というのでしょうか?

岐伯が答えて言いました。

このあとに上記原文

『上焦が開き発せられ、五穀の味〔訳注:精微〕が発散されて、皮膚を温和にさせ、身体を充実させ、毛に艶を与えること、霧露が樹木を潤しているような状態のものを、気と呼びます』が続きます。

そしてさらに、これに津液血脉の各々の説明がなされているわけです。これはつまり、一元の気としての「気」を述べているものではなく、一元の気を六種類にわけたうちの一つに「気」という名をつけ解説しているものです。

一元の気を営衛に分けて考える営衛論と同じ「気」という文字を使ってはいますけれども、異なる範疇の「気」を述べているものであることが理解できるでしょう。

このような意味のレベルの異なるものを、衛の解説として引用することは、論理的ではありません。







B:《霊枢・癰疽》の『腸胃が穀物を受け取ると、上焦が気を出し、分肉を温め、骨節を養い、腠理を通じさせる。』

ここで、上焦という言葉が出ているために、衛は上焦から発しているとしているわけです。けれどもこれは癰疽ができる理由について着目する中で、上焦の宗気の作用について語っているものです。これを衛一般に敷衍させて述べるているとすることは間違いでしょう。

宗気は上焦に位置しています。これと衛を混同してはいけません。







C:《霊枢・平人絶穀》の『上焦が気を発散させてその精微を出すようすは、慓悍滑疾です。』

これもBと同じで、気の発散の様としての慓悍滑疾、すなわち自在な気の動きを述べているものですが、宗気が念頭に置かれています。

つまり、衛の活動の一部について述べているものにすぎず、衛がどこから発しているのかということについて述べているものではないということです。







D:《素問・調経論》の岐伯の言葉『陽は気を上焦に受けて、皮膚分肉の間を温めます。』

ここも同じことですね。

つまり、衛は上焦に出るという論は、主に上焦に集まった宗気の作用に着目して記述している部分を、衛のことであるとして置き換えているわけです。

言葉を変えると、華蓋としての肺の宣散作用について述べている部分を借りて、衛は上焦に出るという論の根拠としているわけです。

これは、全身の生命力を養っている後天の気を、陰陽に分けて解説されている営衛とは異なるものです。いわば衛の範囲を矮小化し、それを根拠として、衛が上焦に発すると主張していると言わなければなりません。




馬蒔の解説



衛気は上焦に発するというこれらの説に対して、明代の馬蒔はもう少し上手な解説を行っています。

『下焦は陰です。陰が極まって陽が生じ、中焦に昇り、中焦の上半の陽に隨って上焦に昇り、ここで衛気を生じます。衛気は陽気です。始めは陽気は非常に少なかったわけですけれども、ここに至ると陽気は非常に盛んになりますので、陽は気を上焦に受けると言われているわけです。意味は《素問・調経論》をご覧ください。そしてこの衛気は、下焦の濁気が昇って生じているので、濁は衛であるというのです。』

つまり、衛の大本は下焦に起こり、上焦に上って大いなる衛気となる。下焦を初発とするため、衛は濁であるというのであるというわけです。

しかしこの論を良く考えてみると、衛が下焦に発するのか上焦に発するのかという表現の違いは実は、「どの段階でそれを衛と名づけるのか」という問題にすぎないのではないかという疑問がわいてきます。

馬蒔はこのように、下焦という陰が極まって生じた陽という概念を用いていますが、じつはこれこそが、馬蒔の結論とは異なり、衛は下焦に生ずるという説の強い論拠となるわけです。




李東垣の営衛



馬蒔は李東垣の説を経旨にあらずとして批判しています。その李東垣の説は以下の通りです。

「清気は営です」清は体の上であり、陽であり火です。離中の陰が降り、午の後、一陰が生じます。すなわち心が血を生じたものです。そのため清気が営であると言われます。

「濁気は衛です」濁気は体の下であり、陰であり水です。坎中の陽が昇り、子の後、一陽が生じます。すなわち腎陽が挙がってこれを使とします。そのため濁気が衛であると言われます。

地の濁は昇らず、地の清が昇ります。陽が挙がってこれを上で使とします。

天の清は降らず、天の濁が降ります。六陰が駆ってこれを下で使とします。

経に、地気が上って雲になり、天気が下って雨になります、雨は地気に出、雲は天気に出ると言われているのは、このことなのです!


というもので、これは、《易経》の八卦、水(坎)火(離)の象形についての解釈の中から出ています。いわゆる水の爻は二陰に挟まれて一陽がある象、火の爻は二陽に挟まれて一陰がある象であり、その中爻の一陰一陽が上下し交流するという発想です。


これに対して馬蒔は、陰が極まって生じた陽が中焦を経て上焦に上ったものであるとしているわけで、人体内の陰陽の把え方が李東垣とは異なっているわけです。

ただ、人身が一小天地であり、天地の運行と同じように人身の気の運行も行われているという観点に関しては、馬蒔も李東垣も同じです。




衛は下焦に出る



これらの説に対して、衛は下焦に出るという説を提げているものには、李東垣・張景岳・李中梓・石寿棠等があげられます。もともと、《霊枢・営衛生会》には、そのように書いてあるわけですから、いわば、文字通りの解釈をしているにすぎないとも言えます。けれどもまた、現代中医の観点から見ると、校勘されてもいない原文に対して付けられた牽強付会な理屈に過ぎないとも言えます。

ここでは、その内容について実際にご紹介します。







清代の末期の石寿棠は、まさに馬蒔と李東垣とをゆるやかに合わせて衛気が下焦に出ると語っています。



・・・宗気は上焦に集まり、営気は中焦に出、衛気は下焦に出ます。営気は宗気にしたがって経脉の中を流れ、衛気は宗気にしたがわずに経脉に入り、自らそれぞれの経脉の外を流れ、頭目皮膚分肉の間へと及びます。そのため経に、『清なるものは営となり、濁なるものは衛となり、営は脉中を流れ、衛は脉外を流れます』と述べられているわけです。

ある人が聞いて言いました。衛気はどうして下焦から出て脉外を流れるのでしょうか?

答えて言いました。経に、上焦は霧のようであり、中焦は漚のようであり、下焦は瀆のようである。とあります。衛気は下焦の陰中の真陽が、中上二焦に升り出たものです。ですから衛気は下焦に出るのです。







石寿棠から二百年ほど時代をさかのぼりますけれども、張景岳の《類経》における解釈は、一元流鍼灸術にも通じるものですので、ここに掲載しておきます。


人の身体というものは表裏にすぎません。表裏は陰陽に過ぎません。陰陽はすなわち営衛であり、営衛はすなわち血気です。臓腑筋骨は内に位置し、営気によって必ず資けられ経脉によって疏通されます。皮毛分肉は外に位置し、経脉は通ることができず営の力が及びません。衛気の温煦によって孫絡によって栄養されます。このように、内は精髄から外は髪膚まで、その養いを受けないものはありません。すべて営衛の化したものなのです。

営気とは、天に宿度があり、地に経水があり、出入に時期があり、運行に順番があるものです。

衛気とは、天に清濁があり、地に郁蒸があり、陰陽や昼夜や時間に随って変化するものです。

衛気は陽に属します。すなわち下焦から出ます。下にあるものは必ず昇ります。ですから衛気は下から上へ、地気が昇って雲になるように昇ります。

営はもともと陰に属します。すなわち中焦から上焦へ出ます。上にあるものは必ず降ります。ですから営気は上から下へ天気が雨となって降るように降ります。

衛は気を主り外にありますけれども、血がないということはありません。営は血を主り内にありますけれども気がないということはありません。つまりは、営の中には必ず衛があり、衛の中には必ず営があるわけです。ただ内を流れるものを営と言い、外を流れるものを衛と言っているだけなのです。

人の身体とは陰陽の交感する道です。これを分ければ二となりますが、これを合すれば一であるだけです。




結語



ここまでで明らかになったように、後天の気によって養われる人身を一元の気と考える立場に立ち、その陰を営、陽を衛として把える限りにおいて、衛が上焦に出るという説は採用できません。

衛は下焦に発し、上昇して全身を循環する中で華蓋に接し、全身に充満し慈雨のごとく霧露のごとく全身を護り温めていきます。

ここにおいて、三焦論や、一源三岐の任督衝の奇経の意味が明確になるわけです。

そしてさらには、脾気を高めることによってあるいは腎気を借りることによって全身の陽気を高めて外邪を排泄するという、《傷寒論》の記載が生きてくることとなります。







2005年 4月22日 金曜   BY 伴 尚志


一元流
難経研究室 営衛論 次ページ