古学と国学



京都の伊藤仁斎(1627~1705)と江戸の荻生徂徠(1666~1728)に代表される朱子学の新解釈は、朱子学や陽明学といった中国の新儒教に飽き足らない人々によって始められました。学問の方法として、古人の言葉そのものにたち帰るという方向性を持つことになったため、この学問は後に古学と呼ばれることになりました。





古学は、仏教や老荘の影響がまだない、古代中国における先王の教えに直ちに立ち返り、そこに復古すべきことを説きました。荻生徂徠は古文辞学から、伊藤仁斎は経典の内容を厳密に吟味していく中からその道をとりましたので、荻生徂徠のそれが古文辞学、伊藤仁斎のそれが古義学と呼ばれています。

これに対して国学にも、基礎となる厳密な古典の研究方法を築いた契沖けいちゅうがいます。国学というくくりで語られる学問は、この厳密な方法にもとづいた文芸の研究を通じて、「我が国の民族の精神をありのままに把握しようとした」わけです。このような学問の姿勢を本居宣長は、「言ことばと事わざと心とは其さま相かなへるものなれば、後世にして、古の人の、思へる心、なせる事をしりて、その世の有さまを、まさしくしるべきことは、古言古歌にある也。」
〔伴注:言葉と、行為と、心とは互いに対応関係にあるものですから、
後世の人が古人が何を思い何を行ったかを知ろうとするのであれば、
それは当時の言葉や歌をあるがままに研究することが大切です〕


と表現しています。





国学と古学とは対立的に考えられることが多いのですがその理由は、古学の対象が古の中国の聖人であるのに対して、国学者は日本の古代の姿をありのままに把えようとしたということ、古学者は理によって人欲を抑えるという方向性をもつのに対して、国学者は理性よりも感情や情緒を重んずる傾向がある、といったところにあります。





このような復古の学問が打ち立てられた理由として、現代の学者である源了圓は、その《徳川思想小史》by中公新書の中で、


1、人間性の要求という点について、人間の欲望にたいして消極的か、もしくは否定的な朱子学や仏教、その他の教に彼らは満足できなかった。古代に帰ろうとする彼らの要求は、人間性回復への内的衝動に根ざすものである。

2、朱子学の教えがあまりにも理に勝ちすぎていて、彼らの心情を満足させることができなかった。

3、朱子学がとかく空理空論におちいって、日常生活における実践に欠けるところがあることに、彼らは飽き足らなかった。

ためであるという解釈をしています。この一番目の背景には、人間解放の時代である元禄期を通過した彼らの人間としてのセンスというものがあったのであろうとし、二番目三番目に関しては、時代や社会の影響とともに、情緒的・心情的な日本文化や国民性が、その本来の力を復元し始めたためではないかとしています。

我々の心の中に天地万物の一切が含まれるとして、心の本体である良知の実現を図った陽明学者に対して、古学者は、人間の生み出した文化や伝統に対する尊敬の念を持ちつづけたという点でその考え方に違いがあります。古学者は、伝統や文化の中にこそ普遍的な人間性の理念が展開されていると考え、その解明を通じて自己の人間性をつちかおうとしたのであると、源了圓は述べています。





さて、ここでは、江戸時代、京都にあって気一元の思想に開眼し、その影響を清朝の思想家にまで及ぼしたという伊藤仁斎について、いま少し深く述べていこうと思います。





2000年 4月15日 土曜   BY 六妖會


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