伊藤仁斎の学問



伊藤仁斎は、官学である林家の俗流朱子学と対峙し、独自の探求によって新境地を開いた京都の儒学者です。彼は古義堂という私塾を開いて、全国から集まってきた門人たちを指導しました。仁斎に直接学んだ人数はその45年間で、のべ3000人にのぼったといわれています。この私塾古義堂は、彼の死後も明治時代後期、1905年まで続きました。





仁斎の最大の学問的関心は、人間とそのあり方にありました。彼の問題とする「道」は、天道や地道ではなく、人道人としての道でした。「道」は日常的な人間関係人倫的世界のうちにあるものであると考えていたのです。仁斎の興味はこのように、人間中心の卑近で日常的な実践の中にあったわけです。

そのため仁斎は、高邁な宇宙論としての朱子学に疑問をもち、論語や孟子の原典からその本来の真意を把握しようと努めることになります。そんな中から、孔子は人間が正しく生きるべき道を説こうとしたのである、と喝破するに至ったのでした。





「聖人は天地を以て活物となし、異端は天地を以て死物となす。」と、聖人の道は、天地が活き活きと生きて働いているものであると把える所から始まる、と考えました。さらに、「天地の間、皆な一理のみ。動有りて静無く、善有りて悪無し。蓋し静なる者は動の止まるのみ。悪なる者は善の変ぜしのみ。」「蓋し天地の間、一元気のみ」と断じています。存在するものは動くことをその基本とし、いわゆる静とは動きの止まった状態にすぎず、存在するものは本来善であり、悪とは善がゆがんだ形にすぎない。このように、遍在する一元気の本来的な活動性・善性に対しての絶対の信頼を、仁斎はおいていたのです。

伊藤仁斎はこのようにして、俗流朱子学のいわゆる理気二元論から決別し、気一元の運動にもとづく生命観生々の徳、活物こそが孔子の思想の根本であると断じました。これを孔子は仁と呼び、この仁の徳は結局「愛」にもとづくのであると仁斎は考えたので、仁斎の学問はまた、愛の人間学と呼ばれています。

この愛について仁斎は、「愛は実心に出づ」「愛は実徳」であると述べ、愛というものが抽象的な概念ではなく、実体のある真心であると把えました。彼はこれに相反するものとして、「残忍刻薄の心」を斥けています。すべての徳は愛の心に発する、だれもがもつ自然な愛の心、いわば人間の自然性を肯定し、それを儒学の言葉で述べたのが、伊藤仁斎であったわけです。





仁斎はまた、人間が生まれつき持つ多様な個性の存在を認め、それを前提として、人間の持つ大きな可能性を説きました。「性」人間の本性は本来多様である。しかしそれはそのままの状態では徳と呼ぶことはできない。徳を持つ人間を目指すということの中に人間の本来的な善性が潜んでいるのである。そう彼は考えました。

この徳を持つ人間を目指す方法として、仁斎は、孟子の四端拡充の説を採用しました。「四端」とは、惻隠あわれみの心羞悪自分の欠点を恥じ、他人の悪いところを憎む心辞譲へりくだる心是非善悪を判断する心という、人間が生まれながらに萌芽として持っている四つの心のことです。これら初発の心こそが、仁義礼智という四つの徳を持ち、人格を完成させるに至る基礎であり土台であると仁斎は考えたのです。このような性の拡充人格の陶冶は、学問や教育によって促進されると仁斎は考えましたので、この学問・教育は、仁斎学において非常に重要な位置を占めるることとなります。

徳を持つ人間を目指す方法は朱子学にあっては、内面的な修養によって欲望をなくし心を鎮めて本来の性=理に立ち返る、という仁斎学とは異なった方法論をとります。





以上、長々と仁斎学について述べてきましたが、この仁斎学における一元の気の観点こそが難経鉄鑑の書かれる動機となっており、その難経解釈において目指していたものであったということがよく理解されると思います。

伊藤仁斎と、広岡蘇仙あるいはその師である井原氏との関係は判然とはしていませんが、広岡蘇仙が京都に学んだ当時すでに伊藤仁斎の名は全国に響き渡っていたこと、蘇仙本人が一団の原気の中で、難経の字句を「一気の玄要」をもって解き明かそうとしたと語っていることから考えてみても、難経鉄鑑が仁斎学の影響を受けているということは明確であろうかと思われます。





2000年 4月16日 日曜   BY 六妖會


一元流
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