垂加神道



吉川神道の課題を引き継いで発展させたのが山崎闇斎(1618~1682)が唱導した垂加神道でした。山崎闇斎は京都の臨済宗妙心寺の僧侶でしたが、その性格が激しすぎたために寺に安住できず、儒学者になりました。

儒学者としても官学である林家と対峙するほどの実力を持っていましたが、吉川神道の門弟との論争を通じて神道に開眼したのでした。山崎闇斎は当時のさまざまな神道流派を行脚し、それらを集大成していきました。

垂加神道は、朱子学を基調として陰陽道おんみょうどうや気学を取り入れ、封建体制の遵守、皇室の護持を強調した、激烈な尊王思想を中核に据えたものでした。当時、皇居のあった京都の地でこのような天皇崇拝の姿勢を説いたため、武士や民衆まで幅広い支持を集め、幕末の尊皇攘夷思想への道を開きました。





闇斎は吉川流の敬つつしみの考え方を発展させ、神道とは、「天日一体の皇祖神、天照大神の子孫である天皇陛下を輔翼して臣子の分を尽くす」信仰であると断じ、天皇崇拝、皇室の絶対化を主張しました。

山崎闇斎の垂加神道は、京都を中心として全国にその門弟が思想を伝えたので、一時は他の神道流派を完全に制圧するほどの勢力を持つに致りました。

また国学や水戸学の源流となり、近世最も影響力のある神道として、幕末の尊王討幕運動や王政復古の思想的原動力となりました。





ちなみに契沖(1640~1701)の学灯を継いだ荷田春満(1669~1736)・賀茂真淵(1697~1769)・本居宣長(1730~1801)・平田篤胤(1776~1843)ら国学の四大人しうしが行ったことは、外来文化(儒教や仏教)の影響を受ける以前の日本固有の姿を探求し、本来の神道の心―――大げさな理屈を言わないで天地自然のままに素朴に生きた古代人の心―――を復活させようとしたものです。これは復古神道と呼ばれ、明治維新以降の国家神道へとつながることになります。





垂加神道の思想



寛文十二年(五十五歳)十二月保科正之が薨こうじた。「先生慟哭」と山田連の闇斎先生年譜に記しているが、さもあるべきこ とである。延宝元年(五十六歳)闇斎は会津に下って正之の葬礼に従事したが、これが東下の最後で、それ以後死没(天和二 年、六十五歳)までの約十年間は足京都を出でず、神儒両学の研究成果の集成に精力を傾けた。儒学における文会筆録、神 道における中臣祓風水草・神代巻風葉集は、このようにして著述された。内容は神典秘書や諸註諸抄の抜粋を集録したも のであるから、処々に短い私按は入っているが、闇斎その人の神道思想を直接理解するには便利な著述ではない。「述而 不作、集而大成」という編著方法が、ここでも一貫しているからである。しかしこれらの編著を通して把握される闇斎 の神道思想の骨組みのようなものを、私見によって列挙すれば次の如くである。






一、宋儒の哲学では、天の理と人の理とは一貫している。すなわち天人合一であり、理気は普遍的存在であるから、古今 東西を貫く原理は共通している。神道は我国の神によって立てられた道であるが、神には造化心化の無形の神と気化身化 の有体の神があり、天神七代は無形の神で、その第一代国常立尊は天地一気の神であり、二代より六代までは五行の神で ある。第七代の伊弉諾いざなき・伊弉冊いざなみ尊は造化と気化を兼ねた神で、天神の終り、地神の始りで、無形の方からいえば陰陽造化、 有形の方からいえば男女気化の神である。前者を未生、後者を已生の諾冊二尊と称する。二尊が国土山海草木を生み、又 人々を生み、神々を生むのは、気化と身化を兼ねた神であるから、何ら不思議ではない。かくて儒教では理気によって論 理的に説明された天地万物の創生が、神道では神々の生々の作用となり、生々の作用は不断に実現されている。創られた 万象、とくに人間には、創った神の霊が内在していて、両者が合一する。それが「天人唯一之道」である。


二、神道は神によって作られた人間が、神によって作られた者として生きていく道であるが、そのためには人は常に神の 教を受け、指示に従わねばならない。人が神に近付く道は祈祷であり、祈祷によって神の指示すなわち冥加を受けること ができる。その場合神の冥加を受ける人間は正直でなければならない。「神垂以祈祷為先冥加以正直為本」との倭 姫命やまとひめのみことの神託はその関係を明示したもので、闇斎の終生尊奉した戒言であった垂加社語。正直はつつしみ・敬の実践によ って体現される。この敬を人間形成の根元から説明したのが垂加神道の土金伝で、火から土が生じ、土が金気で堅くしま って人が生ずるが、この土のしまる処からツツシミは発するので、「人ハツツシミヲ得テ生ル」と古語にあるのもその意味で、土神が惶根尊かしこねのみことと称するのも、人間の根が惶・かしこみ・おそるるでなければならないことを示したもので、人 の人として立ちうるは敬・つつしみによることを明らかにした「殊勝ナ事」であり、そのため闇斎は神代巻講義の時は、 最初に土金伝を教授し 神道における敬の重要性を明らかにしたのである(神代巻講義。神道では正直・清浄を尊重し、神人の通路は正直でなけれはならないが、正直は人間形成の根元たる土金に根元した土地之味つつしみ(玉籤集巻一、土金之伝)を修めることこよって実現されるのである。


三 人間の生きる道は 普遍的には五倫父子の親愛、君臣の正義、夫婦の区別、長幼の序列、朋友の信義五常仁義礼智信の道である。しかし五倫五常のどこに中心を置いて道を立てるかは、道によ って差異があるが 神道は君臣関係を以て人倫の中心と考え、日東日出処に成立した神道こそ、道の純粋を得たものであ り 君臣関係が国土創生当初から確定し、紊乱することのないのが、神道の万教に卓越した所以だと説いた。垂加神道で はこの立場から 最高奥秘たる持授抄が編作されている。






以上 垂加神道の骨組みを神人関係,道徳関係・人倫関係の三点から説明した。闇斎は神儒を兼学したが、神儒混淆、神儒習合を極力否定した。儒教については朱子学を信奉し、程朱及びその正統学派の人々の著述を厳密に再検討して、その中から程朱学の本質を理解し、顕彰し、程朱の論説を程朱の文章を通して闡明しようとした。同様の立場は神道についても貫徹され 神道の本質を神書・諸抄・秘伝を通して、私見を混同せずに闡明しようとしたのである。闇斎学と垂加神道とはこの意味で別々のものであった。しかし既に述べた垂加神道の骨組み三条においても、天地一気の神を国常立尊と想定し土金を敬を以て解し、五倫を前提にして君臣道を重視するなど、神道を儒教理論と対応させて説明していることは明瞭である。

後半、阿部秋生 氏解説による
日本思想体系39近世神道論前期国学 岩波書店刊







2000年 4月16日 日曜   BY 六妖會


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