難経鉄鑑 叙由4




答えて曰く。最近の人々は、たくさんの聖典を読んだ後、次のように語っています、「聖人の道を、私一人獲得することができた」と。このような言は、聖人の道をその本来の用途である治国教化〔訳注:国を治め人民を教化すること〕に用いて実際に試すことなく、自負心だけを高めているにすぎないのではないでしょうか。

古人には、経伝などを学ばなくとも、よく主君を補佐し・民衆を治め・大地を開墾し・水路を開拓する人物がいました。このような人々は、全て自分の良知良能〔訳注:天性具わっている知恵・能力〕に従ってこれらのことを実践していったのです。

医術においても全く同じことが言えます。ただよく治療して病を癒すことができる人だけを良医と呼ぶのです。医家という呼称で呼ばれるものは、経典を学ぶもののみに対してつけられている言葉ではないのです。

古人には経典を学ぶことなくその術が神に入っている者〔訳注:名人〕が多かったと聞きます。また、越人が、この《難経》を垂示した理由は、もっぱら世の疾苦を救うためだけだったのです。それだけを心に止めていたのです。ですから、もしこのような書物を学ぶことなどなくとも、よく廃痼を起こす〔訳注:適切な治療をして人々の健康を回復させる〕ことができるならば、越人はその人を讃えて、よく学問を修めていると言うでしょう。

それに反して、口先では経義の何たるかを語ってはいても、その術が下手で人を害する者に対しては、越人は嫌って何も判っていないと断ずることでしょう。

このように理解していくならば、もしこの《難経》の解釈が私ほどできないとしてもその術において私より上手なものであれば、私はその人を是として私を誤ったものとします。

あなたもそのような質問をするのであれば、自分自身の術を明らかにしていただきたい。





答えて曰く。もし充分に知行並修する〔訳注:学問と技術を共に修める〕ときは、その術が下手であることは有り得ないと思います。

最近の人々は、学問は一生懸命やるのですが、それを実際の場で試みようとはあまりしないようです。そのため術の下手なものが多くなるのでしょう。

また、よく考えてみると、経典というものは他山の石でしかなく、それを学ぶことによってわれわれは自分自身という璞はく〔訳注:製材する前の木、研かれる前の石という意味〕を磨いていくのだと思います。この璞には、上知から下愚まで異なったレベルの者があります。

上知の人〔訳注:非常に賢い人〕は、経典という石を仮りることなくともその光を顕わします。つまりこのような人は、経典について詳しくなくともその術が神に入っている人です。

下愚の人〔訳注:非常に愚かな人〕とは、いかにその璞を磨いたとしても光が出てこないような人です。つまりこのような人はいかに経典を学んでもその良知〔訳注:本来具わっている知恵〕が表われ出てこないような人です。

この両者に対して中当の人とは、経典を学べばそれだけ明晰となり、その術を磨いていくとそのぶん光を増します。このような中当の人が世の中には最も多くいます。そのため経義を詳細に解説する必要があると考えました。このようにしておけば、少なく学ぶときは少なく得、多く学ぶときは多く得ることができるようになるからです。これが私が経義を集めて解釈を加える理由です。

もしただ経義を学ぶだけで、自分自身の中にある良心〔訳注:本来具わっている心〕を磨くことがなければ、それは、自分という石を磨いて宝にした上で、それを捨て去るようなものです。

《難経》とはいったいどのようなものなのでしょうか。それは、私自身・あなた自身の身中にある臓腑経絡を説いているものです。もしあなたが自分自身の内部の臓腑経絡すなわち陰陽の往来を理解しているならば、《難経》などはただの文字の糟粕〔訳注:かす〕でしかありません。そこから何の益も得ることはできません。

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