門弟 後書き



かの泰山の峰の高さはどのような人であってもそれを仰ぎ見させるものです。そしてこの山に登るものには、みな天下を小さく見下ろそうという意志があります。扁鵲の名前は天下に響きわたっています。天下の人々は皆な扁鵲を脉の祖であると理解しています。そのように高名であっても実際に《難経》の奥堂に入ることができなければ、どうして箱の奥にしまわれている美玉を窺い知ることができるでしょうか。





聞き及ぶ所、この道に井原先生という方がおられるそうです。もともとは筑紫〔訳注:九州の北方〕の人ですが、京師〔訳注:京都〕に住んで医学を講じ、遂にはその医流において一家言をなすまでになられました。天下の学徒はその門に集まり、《難経》が至宝であるということを愕然として悟るのでした。荊山の璞〔訳注:宝玉〕が、和氏に出会うことによって顕らかにされたようなものです。





ここにわが金華先生は、青衿〔訳注:学生〕として雒〔訳注:もと洛陽、転じて京師の意か〕に遊学し、井師の学脉を嗣ぎ、壮年の人々と並んで諸師の説に基づいて《難経》の解釈をし、これを鉄鑑と名づけました。諸説を枝葉の法として、ただ一鉄鏡〔訳注:自説を省みて参照するための基本〕を設けたのです。これは、人に疾病があれば臓腑を照見するということを意味します。





ああ、《難経》が璞〔訳注:磨く以前の宝玉〕であるということを知っていたのは井原師です、これを磨いて光り輝かせたものはこの鉄鑑です。この金華先生は、河東〔訳注:河内の東部のことか〕の人であり、その生年月日の干支と時刻が、宋の蘇東坡先生と同じだったため、蘇仙と名乗られました。





その母の阿象は、法華経を奉持していつも先生の幸福を祈られていました。そのため先生の学の余力が仏教の経典にまで及び、先生が著わされたこの鉄鑑には、竺墳〔訳注:仏教経典〕から引用して説き明かしている部分が多くなっています。





このようにして成った鉄鑑の書を、二十年以上もの間先生は秘され、世に出すことがありませんでした。先生は言われたものです、「古代において、言葉を出さなかったのは、自分が及ばないのではないかと恥じていたからです。」と。





私たちは先生に、「先生がこの書を謙遜して出さなければ、誰が一体扁鵲の徳を仰ぐことができるでしょうか。また井原氏の伝承もいずれ滅びることになるのではないでしょうか」と請い続けました。そこで先生はようやく許諾され、「わかりました。このことは信まことに、道たる道であり正道です、君達にこれを渡しましょう。」と言われたのです。





これによってわたしたちは剞劂氏〔訳注:版木制作者〕に附すことができ、ようやくこの伝を広めることができるようになったという次第です。



寛延庚午〔訳注:一七五〇年〕人日 門生     章貞等  識す




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