第 十四 難

第十四難




十四難に曰く。脉に損至があるとはどういう意味なのでしょうか。


血脉は人身の水です。ですから月の満ち欠けや・潮の増減に影響を受けます。健康な人の場合はそのような月の満ち欠けや潮の増減による影響を自覚しませんが、病気になるとそれに従って身体にもさまざまな徴候が現われます。これは十五難で身体が衰えて始めてそのような徴候が現われると言っているのと同じことです。






然なり。至の脉は一呼再至を平と言い、三至を離経と言い、四至を奪精と言い、五至を死と言い、六至を命絶と言います。これが至の脉です。では損の脉と何でしょうか。一呼一至を離経と言い、再呼一至を奪精と言い、三呼一至を死と言い、四呼一至を命絶と言います。これが損の脉です。


損脉は陰に属し、脉数が減損する脉状です。至脉は陽に属し、脉数が増至する脉状です。


一息四至・五至を平と言い、平常の状態であると判断します。一息六至・七至を離経と言い、平常の状態を逸脱している病気の状態です。一息八至九至を奪精を言い、病状が激しくなって精気が脱却しようとしている状態です。一息十至・十一至を死と言い、胃気がすでに亡びて真臓の脉状が現われている状態で、治すことはできません。後天の気が絶しているからです。一息十二至以上を命絶と言い、天賦の生命〔訳注:先天的に与えられている生命力〕が絶滅しかけている状態です。先天の気まで絶しているからです。


一呼一至のときは一吸一至であり、これはつまり一息二至の脉状です。この一息二至は平常の状態を逸脱した脉状です。再呼一至のときは再吸一至であり、これはつまり二息二至の脉状です。この二息二至は精が脱している状態を示す脉状です。三呼一至のときは三吸一至であり、これはつまり三息二至の脉状です。三息二至は困死しそうになっている状態の脉状です。四呼一至のときは四吸一至であり、これはつまり四息二至の脉状です。四息二至は天命が亡びかけている状態です。けれども私は思うのですが、一呼一至と言ったとしても、まだ奇零〔訳注:数のあまり。割り切れない微妙な変化〕があります。他の至数でもそうです。ですから、精確に診察していくということがやはり大切なのです。






至脉は下から上り、損脉は上から下ります。


至脉は、陰が衰えている状態ですので下から上行します。これは腎肝の陰が先に傷れて後に心肺に至ったものです。一息四至・五至の脉状を呈する人は平常の状態です。一息六至の脉状を呈する人は腎の一臓だけ損なわれている人です、一息七至の脉状を呈する人は腎肝の二臓が損なわれている状態です。一息八至の脉状を呈する人は腎肝脾の三臓が損なわれている状態です。一息九至の脉状を呈する人は腎肝脾心の四臓が損なわれている状態です。一息十至は腎肝脾心肺の五臓が損なわれている状態です。ですから、一呼五至〔訳注:すなわち「一息十至・十一至」〕を死と言うと語っているのです。


損脉は、陽が衰えている状態ですので上から下行します。これは心肺の陽が先に傷れて後に腎肝に至ったものです。一息二至の脉状を呈する人は肺の一臓だけ損なわれている状態です。二息三至の脉状を呈する人は肺心の二臓が損なわれている状態です。二息二至の脉状を呈する人は肺心脾の三臓が損なわれている状態です。二〔訳注:「三」の誤りか〕息二至の脉状を呈する人は肺心脾肝の四臓が損なわれている状態です。三息一至〔訳注:「四息二至」の誤りか〕の脉状を呈する人は肺心脾肝腎の五臓が損なわれている状態です。ですから、三呼一至〔訳注:すなわち三息二至〕を死と言うと語っているのです。






損脉の病状にはどのようなものがあるのでしょうか。
然なり。一損は皮毛が損なわれ、皮膚が集まり毛が落ちます。二損は血脉が損なわれ、血脉虚少で五臓六腑を栄することができません。三損は肌肉が損なわれ、肌肉消痩し飲食が肌膚となることができません。四損は筋が損なわれ、筋緩み自ら収持することができません。五損は骨が損なわれ、骨が痿えて床に起つことができません。これと反対の順序で起こるものは、ここに至の病を収めたものです。上から下り、骨が痿えて床に起つことができなくなったものは死にます。下から上り、皮膚が集まり毛が落ちるものは死にます。


前節では損至の脉状について語り、この節では損至の病状について語り、下節では損至の治法について語っています。

肺損のものは、皮膚が集まり毛が落ちます。病人の中の、尺膚が縮んで皺だらけになり、毛が全くなくなっているものがこれにあたります。

心損のものは、血脉が虚して少なくなり、顔色が焦枯〔訳注:焦げて枯れたように艶なく色があせること〕します。顔は心の栄華が現われる所で、五臓の精気が集まる所です。

脾損のものは、和気が衰えて津液が枯れます。ですから邪熱が穀を殺してしまうため、たくさん食べることはできるのですが肌肉にはなりません。

肝損のものは、血海が不足し筋力を養うことができません。肝は発生の府ですので、その外に向かって行こうとする力が弱まるため、自身の肉体もしっかり維持することができなくなるのです。

腎損のものは、骨節が軟弱で寝てばかりおり、座ったり立ったりすることができません。これは腎という下部の基礎が弱くなって固まらず、五体を載せることができないためです。

これらは全て虚損の症状であり、気血が衰退することによってこのような症状を呈しているものです。肺から腎に至るものは「損」であり、反対に腎から肺に至るものは「至」です。

「ここに至の病を収めたものです」の「ここに」とはここに於てという意味です。「病を収めたもの」とはその病を収納するという意味です。収病はまた主病とも言うことができます。つまりは、至脉がここに病を主るといった意味となるのです。上から下って腎に至り、下から上って肺に至って五臓全てが損なわれた場合には死にます。古説にはこの「ここに至の病を収めたものです」という部分は、「至脉の病です」と改めるべきであるとあります。






損を治療する方法にはどのようなものがあるでしょうか。
然なり。肺が損なわれたものはその気を益し、心が損なわれたものはその栄衛を緩くし、脾が損なわれたものはその飲食を調え、その寒温に適せしめ、肝が損なわれたものはその中を調え、腎が損なわれたものはその精を益す。これが損を治療する方法です。


肺は五臓の最上に位置し、天に象ります、ですから全身の気は全て上って肺に集まります。このように肺は気の主ですから、気を益すときは肺も充実するのです。

心火は血を化します〔訳注:水穀の精微を化して血とすることを指します〕、心は諸血の主ですから、血が盛なときは心も満ちます、ですから栄衛を調えて血を養うのです。

脾は飲食の主です、飲食の調和がとれているときは脾も安泰で全身を奉養します〔訳注:全身という目上に仕え、それを養います〕。外気の寒温の状態に従い上手に適応していけば、脾は中和の養を得ることができます。

肝は陰中の陽です、陰土が衰えると陽木が逆します、ですからその中を緩めるのです。中が緩むと逆上することがなくなり、肝気も自然に調和がとれてきます。陰緩が陽跳を制する〔訳注:陰を緩めることによって陽の跳動を制する〕このような方法は、水が魚を安んじている状態に似ています。

腎は五臓六腑の精を受けて、これを蔵します。精は身体の本質的な要素であり、腎はそのような精の主です。精が益すと腎が真っ先に充実し、腎が充実してくると臓腑全てが充実して全身が健康になります。

肺と腎とは気臓です。気が肺に行くときは気と呼ばれ、水蒸気のような状態になり、気が腎に充実するときは精と呼ばれ、玉泉〔訳注:上質の泉〕のような状態になります。ですから、気が盛なときは精が生じ、精が盛なときは気が充実するのです。これは、気と水とが相互に転換する妙を示していると言えるでしょう。


問いて曰く。心損には衛を調えるとありますが、衛は気です。肺損には気を益すというときの気とどのように区別すればよいのでしょうか。

答えて曰く。肺損には気を益すというときの気は、人身における表裏内外全ての気のことを言っています。心損には栄衛を調えるというときは、栄血と循環する衛気のことを言っています。血脱には気を補うとよく言われているものは、つまりは栄衛を調える方法なのです。


問いて曰く。肝損には中を緩めるという、その意味は何なのでしょうか。

答えて曰く。土地が堅く瘠せているときは草木も生ずることができません。中州が緩んで調和している状態は、豊穣な大地のようなものです。脾土が肥えて軟らかいときは、肝木も盛に育ちます。これが肝を滋養する方法なのです。






脉には、一呼再至一吸再至があり、一呼三至一吸三至があり、一呼四至一吸四至があり、一呼五至一吸五至があり、一呼六至一吸六至があり、一呼一至一吸一至があり、再呼一至再吸一至があり、呼吸再至があります。脉はこのように来ますが、どのようにすればその病状を弁別して知ることができるのでしょうか。


この文章では呼数を挙げているだけで吸数には言及していません。これはおそらく一呼を一呼吸の半分の意味として表現したのでしょう。ですから再び吸数を挙げて、読者に一呼一至は一息二至という意味であるということを教えているのでしょう。また呼吸再至と言っているものは、おそらく三呼三吸、四呼四吸二至という意味ではないでしょうか。しかしこの部分について古代の説では衍文〔訳注:誤って混入した不要な文章〕であるとしています。けれども、この文は答辞の中にも書かれているので、衍文であると判断することは必ずしもあたらないのではないかと思います。






然なり。脉が来ること、一呼再至・一吸再至で大でも小でもないものは、平と言います。一呼三至・一吸三至のものは、病を受けた所であるとします。前大で後小のものは頭痛目眩し、前小で後大のものは胸満短気します。一呼四至・一吸四至は、病が激しくなろうとしている状態です。その脉状が洪大のものは煩満に苦しみ、沈細のものは腹中が痛み、滑のものは熱に傷られ、濇のものは霧露に中ったものです。一呼五至・一吸五至は、その人が病によって困窮している状態です。沈細のものは夜悪化し、浮大のものは昼悪化します。大でも小でもないものは困窮している状態であっても治すことができます。けれどもその脉状が大であったり小であったりするものは、治療し難いものであると判断します。一呼六至・一吸六至は、死脉とします。沈細のものは夜死に、浮大のものは昼死にます。一呼一至・一吸一至は、損と名づけます。今は元気に活動している人も、床につくことになるでしょう。どうしてかというと、血気がともに不足しているからです。再呼一至・呼吸再至は、無魂と名づけます。無魂のものは当に死のうとしている状態です。このような脉状で活動している人のことを、行尸と名づけます。


前難では損至の脉状によって内傷による五臓の虚損を論じています、この難では損至の脉状によって外傷や経絡の衰絶を説明しています。前難で至数〔訳注:脉の搏動数〕を述べて形状を述べていない理由は、その病状が全て虚損によるものなので、その脉状も同じように虚しているからです。この難で脉状を述べている理由は、その病が虚実ともにあるからです。ここでも損脉についてだけ述べている部分では、その形状については触れていません。

平脉が現われるとき、一呼再至〔訳注:一息四至〕は、平常な搏動数です。このような搏動数で、その脉状が大でも小でもないものは、平常の形状です。

もし一呼三至〔訳注:一息六至〕のときは、その搏動数は平常の状態ではありません。またそのような搏動数で、その脉状も大であったり小であったりするものは、脉の形状についても常を失していますので、病に罹っていると考えます。三至〔訳注:一息六至〕のものは、その搏動数が速いので、熱証のものと考えます。前に来る脉が大で後に去る脉が小のものは、前は陽、後は陰、大は病状が悪化していくと考えます。このような脉状を呈するものは、上部の陽に病があります。ですから上部が閉渋〔訳注:閉塞して通じ難い状態〕していれば頭痛し、邪が実していれば目眩となります。前小後大のものは、病が上部の下位にあります。ですから胸中窒碍して〔訳注:ふさぎさまたげる状態で〕緊満し、肺気が活発に活動できなくなって短促〔訳注:呼吸が短く速くなること〕します。これは外感病に罹りかけたことを表わしています。ですからその病の位置は上にあり表にあり、その脉状が大であれ小であれ頭胸の間に留まっています。

一呼四至〔訳注:一息八至〕のものは、陽邪が少し深くなり、病が悪化していく徴候です。その脉状が洪大のものは、陽邪が心を侵したものです。洪大は心の脉状です。心が邪を受けているので、煩心して満悶します。陽邪が徐々に深くなってくると、その脉状は、寝〔訳注:沈の誤りか〕数となります。この数は陽を表わし、沈は陰を表わします。沈細で数のものは陽邪が陰に入ったことを表わす象ですから、腹中が痛みます。腹部は陰であり陰の部に痛みを覚えさせるものは陽邪だからです。邪が陽部にあるものを陽邪とし、陰部にあるものを陰邪としますが、その本はひとつです。脉状が滑のものは、血気が内に動じています、熱邪が気を傷ったからです。脉状が濇のものは、血気が内に滞っています、霧露の寒邪が血を傷ったからです。寒邪が血を傷ってはいますが、一呼四至〔訳注:一息八至〕のときは、外寒内熱の状態であると判断すべきです。

一呼五至〔訳注:一息十至〕のものは、邪が深く入り込んで五臓におよんでおり、その人は非常に困窮して危険な状態です。沈細のものは、陰分に邪がありますので、夜という陰の時間帯にその病状が悪化します。浮大のものは、陽分に邪がありますので、昼という陽の時間帯にその病状が悪化します。その脉状が小であったり大であったりするのは、陰陽が偏勝し和気が衰え去った状態であることを意味します。ですからこのような脉状を呈するものは治療し難いわけです。その脉状が大でも小でもないものは、まだ陰陽が偏勝している状態ではなく、和気が残っています。ですから困窮しているとしても治すことができます。

一呼六至〔訳注:一息十二至〕のものは死脉です。沈細のものは〔訳注:陰の病であり、陰が先に絶しますので〕夜間に死にます。浮大のものは〔訳注:陽の病であり、陽が先に絶しますので〕昼間に死にます。

一呼一至〔訳注:一息二至〕のものは、陰が偏勝して真陽が衰え、血気が耗損している状態です。たとえ今は元気に活動していたとしても、病気になり床につくことになります。

再呼一至あるいは三呼四呼に一至〔訳注:一息から二息に一至〕のものは、真陽が絶滅した状態です。その神魂はすでに脱け出ていますので、もし活動することができるとしてもそれは行尸〔訳注:屍が歩いているような状態〕なので、長生きすることはできません。


問いて曰く。至脉の極まったものということは陽盛で陰絶の状態のことです。にもかかわらずその死にあたって陰陽の違いが出てくるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。至は陽邪によってなるものですが、人にはそれぞれに陰陽の偏りがありますので、陰絶・陽絶といった前後の違いが現われるのです。このことは薪を積んで火をつけることにたとえることができるでしょう。前に火をつけると前が先に焼け、後ろに火をつけると後ろが先に焼けます。火は同じ一陽ですが、焼く薪に前後があるため、前火・後火の違いが出てくるのです。


問いて曰く。この難の損至の解説が、前後の二篇に分けられている理由は何でしょうか。

答えて曰く。前節では内虚による損至を述べています、徐々に損する理由は陰である形を傷るためです。後節では外傷による損至を述べています、外傷の病が急に起こり徐々に起こらない理由は、陽である気を傷るためです。至脉は陽に属します。ですから先ず気分〔訳注:浅い部分〕に入り、正気と邪気とが互いに争いあって、その病症は転々と変化していきます。損脉は血気の不足を示し陰に属します。ですから邪が直接真血を傷っているため形気の病とはならないことがあります。損脉を呈しながら元気に活動している人がいるのは、形が病んでいないために自覚的な症状がないからです。形気はこの場合病んではいませんが、血脉が損なわれているため死にます。八難に、寸口の脉状が平であっても生気が絶するものは死ぬとありますが、これは元陽が絶したことを表わしています。この難では形〔訳注:身体的状況〕は平であってもその脉が損なわれているものは死ぬとありますが、これは真陰が尽きたことを表わしています。形が病んでいないようであっても脉が損なわれているものは死に、脉が病んでいないようであっても気が絶しているものは死にます。ここでも元気が最も重要であるということが理解できます。


問いて曰く。前の文章にも一呼再至〔訳注:一息四至〕を平と言っていますので、ここの文と合致しています。けれどもその後の部分については、三至〔訳注:一息六至〕を前文では離経と言い、ここでは病を受けた所と言い、四至〔訳注:一息八至〕を前文では奪精と言い、ここでは病が激しくなろうとしている状態と言い、五至〔訳注:一息十至〕を前文では死と言い、ここでは困窮している状態と言い、六至〔訳注:一息十二至〕を前文では命絶と言い、ここでは死と言っています。また一呼一至〔訳注:一息二至〕を前文では離経と言い、ここでは損と言い、再呼一至〔訳注:二息二至〕を前文では奪精と言い、ここでは無魂と言っています。このように名前が異なるのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。前後の名前が違う理由は、病気には大きく分けて内傷と外傷とがあるからです。内外という観点から陰陽を用いるならば、内は陰で外は陽となります。損至という観点から陰陽を用いるならば、損は陰で至は陽となります。


内傷は陰に属します。陰の性質は下り退くものです。ですから一呼一至〔訳注:一息二至〕というふうにその脉動が損減していく際、内傷のものに対して離経と名づけているのは比較的軽症のものであるということを表わし、外傷のものに対して損と名づけているのは比較的重症のものであるということを表わしています。なぜ軽症であるかというと、脉動が減損していくものは陰であり、内傷も陰であって、同じ陰として強く現われているからです。また外傷の場合になぜ重症であるかというと、脉動が減損していくという陰と、外傷という陽とが異なった気として弱く現われているからです。内傷のものを奪精と名づけ、外傷のものを離魂と名づけているのもまた同じ意味があります。内傷に三呼四呼〔訳注:二息一至〕まで遅脉が掲げられているのも、減損してくという陰の性質に従っているものと考えられます。


外傷は陽に属します。陽の性質は上り進むものです。ですから一呼五至〔訳注:一息十至〕というふうにその脉動が増至していく際、外傷のものに対して困と名づけているのは比較的軽症であるということを表わし、内傷のものに対して死と名づけているのは比較的重症であるということを表わしています。なぜ軽症であるかというと、脉動が増至していくのは陽であり、外傷も陽であって、同じ陽として強く現われているからです。また内傷の場合になぜ重症であるかというと、脉動が増至していく陽と、内傷という陰とが異なった気として弱く現われているからです。外傷に三呼四呼〔訳注:二息一至〕まで遅脉が掲げられていないのも、脈動が減損していくということが陽の性質に反しているからです。


また、至脉は再至から六至に至る〔訳注:一息二至から十二至〕まで幅広く、死に至るまでその脉動に幅があります。それに対して損脉においては、一呼再呼〔訳注:一息から二息に一至〕のものだけで、死に至るまでその脉動に幅がありません。このように死までに遅速がある理由は、至脉は陽に属すものであり、陽は生の道であるため遅くなると思われます。






上部に脉があり下部に脉がない場合は、その人は吐くべきです、もし吐かない場合は死にます。上部に脉がなく下部に脉がある場合は、もし困窮している状態であったとしても害はありません。たとえれば、人の尺部に脉があるということは樹に根があるようなものです。樹に根があれば、その枝葉が枯れてしまっても根本からまた再生しようとします。同じように脉にも根本があれば、その人には元気があるということなので、死ぬことはないと理解するのです。


前文では縦に損至の生死を説明し、この文では横に上下の生死を説明しています。上部に脉があり下部に脉がないものは、全て上実の状態です。外邪が上に実しているために気が上に集まっている場合、吐くことができると上が通利するため気が下に帰って来るので治ります。それに対して内が虚したために上が実している場合は、気が上に集まったまま下に戻ることができません。そのため下部の気も虚して死んでいくのです。気が上に集まって下に脉がない状態のものとは、熱斑の症状を呈して血が表に浮いてしまい、下部に脉がなくなっているものなどがあります。このようにこの文章においても内外虚実が考えられています。八難では気を主として説明していますので、元気を根本にたとえ形を茎葉にたとえました。この篇では脉を主として説明していますので、尺脉〔訳注:尺部〕を根本にたとえ上脉〔訳注:寸部〕を茎葉にたとえています。混同しないようにしてください。師は言われていました、「元気の字はここに始めて提出されている」と。よく記憶に留めておいてください。


問いて曰く。昔の人の中には、たとえればという字は、樹に根があるようなものという字の前に来るべきであると言っている人がいますが、どうでしょうか。

答えて曰く。この本文では実際の事とたとえとを交互にあげています。老子に、『たとえれば、道が天下にあるということは、川や谷の水が江海に流れ込むようなもの』とありますが、同じような使い方になります。



一元流
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