第 十五 難

第十五難




十五難に曰く。経に、春脉は弦・夏脉は鈎・秋脉は毛・冬脉は石と書かれています。これは王脉でしょうか、それとも病脉でしょうか。


第七難で説明されている六節〔訳注:少陽・陽明・太陽・少陰・太陰・厥陰〕の王脉は、天の満数に法ったものです。この難で説明している四時の時脉は、天の虚数に則したものです。気満朔虚〔訳注:二十四「気」の「満」数と十二「朔」の「虚」数〕は全て人身に応じます。これが天人合一の道です。






然なり。弦鈎毛石は四時の脉です。


これは四時〔訳注:四季〕の常脉で、病脉ではありません。この文は総括的な解答で、以下に、個別的な解答があります。






春脉は弦。肝は東方の木です。万物が始めて生じたところなので、まだ枝葉はありません。ですからその脉状は、濡弱で長なので、弦と名づけます。


肝の色は青で、陰中の陽です。天においては春にあたり、陽気の始め、生育の魁首〔訳注:一番初めの始まりのとき〕です。地においては東にあたり、太陽が出る所、万物が生じる門にあたります。天地の中間においては木にあたります。草木は春に萌えだし、東に向かって繁茂し、陰である地から発生しますので、陰中の陽にあたります。五行の中で木だけが栄枯を表わし、天地の状態を表現しています。ですから、脉状を説明する場合、木を仮りてたとえにすることがあります。木の生は、五行の中間にあたり、水火を一二とし、金土を四五として、木は三に生じます。このように木は五数の真ん中に位置しており、中気を受けますので、天地の状況を表わしており、人の状況と似ています。人における生老盛衰の形と似ているわけです。万物が生じたところと言って木が生ずるとは言っていない理由は、木も万物のうちのひとつだからです。まだ枝葉がない状態であり、陽が生じた所ですがまだその陽も幼稚で微弱である事を表わしています。その脉状の濡弱は陰で、長は陽、陰中に陽があるという脉状です。弦は糸を張ることです。糸は濡弱であり、そのような糸を張ると長くなります。このことを弦と名づけているのです。






夏脉は鈎。心は南方の火です。万物が繁茂するところなので、枝を垂れ葉が茂り、全て下り曲って鈎のようになります。ですからその脉状は、来るときは疾くて去るときは遅いので、鈎と名づけます。


心の色は赤で、陽中の陽です。天においては夏にあたり、極陽の時期です。地においては南にあたり、熱極の場所です。天地の中間においては火にあたり、その火炎の気は上行します。陽が盛であれば万物が繁茂し、陽が升れば上部が大きくなりますので、枝葉が垂れ覆いかぶさるような状態になります。さらに陽が極まると陰が生じるので、下り曲ります。その脉状が来るときに疾い理由は、陽が暴厲に〔訳注:急に激しく〕勢いよく上って来るからです。その脉状が去るときに遅い理由は、陽が亢ぶると反って陰を表わすからです。これは先の下り曲るものと同じ理由になります。鈎は金鈎〔訳注:金属性の鉤〕です、帯金緊固のもの〔訳注:帯を堅く締めるということ〕は厲疾の状〔訳注:急で激しい状態〕を表わしています、婉曲なものは下遅の象〔訳注:ゆっくりと垂れ下がってくる状態〕を表わしています。


問いて曰く。枝を垂れ葉が茂るものは陽であり、下り曲って鈎のようになるものは陰です。これは陽中に陰がある状態ではないのでしょうか。どうして陽中の陽と言うのでしょうか。

答えて曰く。陽中の陽とは四時について言っている言葉です。陽中の陽にもまた陰があります。夏至には一陰が生じますがこれは陽が極まって陰が生じたもので、これが自然の法則です。極陽で陰がないものは死にます。ですから活火には煙があり、死火には煙がありません。煙は黒く陰です。これは、腎は陰中の陰ですがその脉状には陽である滑脉があるようなものです。






秋脉は毛。肺は西方の金です。万物が終わるところなので、草木や花や葉は全て秋に落ち、その枝だけが毫毛のように残ります。ですからその脉状も軽虚で浮きますので、毛と名づけます。


肺の色は白で、陽中の陰です。天においては秋であり、涼気がすでに極まっており、陽が還ろうとしている徴候を示しています。地においては西であり、太陽が入る門で、あらゆる動きがここに休みます。天地の中間においては金であり、その堅剛という側面から言うと陽で、重鎮という側面から言うと陰です。万物は春に始まり秋に終わります。そのそれぞれがその根に帰り、花や葉は枯れて落ち、枝や梢は枯槁し〔訳注:枯れ〕ます。夏に下に垂れるのは重いからですが、秋に枯槁するのは軽いからです。万物の津液が枯槁して軽虚となる状態は、羽毛のようです。その脉状も、浮という側面から見れば陽ですが、軽虚で無力であるという側面から見ると陰です。ですからこれを陽中の陰とするわけです。


問いて曰く。初めに草木という言葉を使っていないのに、ここでは草木という言葉を使っているのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。文章を作成する場合には、前隠後顕〔訳注:初めは隠しておいて後でその内容を表わすこと〕・首吐尾含〔訳注:初めにその内容を表わしておいて後ではそれをすでに包含しているものとして語らないこと〕といった方法があります。ここで草木という言葉を使っている理由は、初めはそれを内包していて後で顕在化したものです。ですから秋という字を置いて、上文と対応させるようにしているのです。






冬脉は石。腎は北方の水です。万物を蔵するところなので、盛冬の時期には、水も凍って石のようになります。ですからその脉状は、沈濡で滑となりますので、石と名づけます。


腎は黒色で、陰中の陰です。天においては冬であり、極寒の季節です。地においては北であり、極陰のために用いることができない土地です。天地の中間においては水であり、極陰で寒冷です。陰が極まると陽が生じますので、氷は石のように堅くなります。その脉状が沈濡であるのは、水の性質が沈下して柔軟であるということと対応しています。また脉状が滑なのは、水が玉石のように凍ることに対応しています。活水は浄潔ですが、浄潔であるということは陽として考えます。つまり極陰に陽があると考えるわけです。また死水は腐濁します、極陰で陽がない状態と考えるわけです。


問いて曰く。春・夏・秋の季節は木をたとえとして引いていますが、冬である腎の時にだけ水をたとえにしているのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。参天の道〔訳注:天に応ずる法則〕には、四時がありますが、その用〔訳注:機能〕としては三あるだけであり、四方があるとはいってもその用は三方にしかありません。冬は閉蔵で、北は極陰です。これらは人体における背のようなもので、全て無用の所です。これと同じように、脉状について語る際、春・夏・秋の三季を木にたとえているのは、用としての意味があるのです。春に生まれて秋に実ることによって、万物の動きが終ります。冬という季節はその用が終わって万物が休息するときです。ですから氷や水にたとえているのです。これはその体〔訳注:本体〕であると言うことができるでしょう。三は用であり一が体です。用は動であり体は静です。このように一動一静することによって、天地は生生して止まることがないのです。






これが四時の脉です。


これは常脉の結びとしての答です。






もし変があればどのようになりますか。


変とは常を失った状態です。病気になると常を失うので、その脉状においても変化が表われます。以下の文章は、四時の変病について述べられています。






然なり。春脉は弦、これに反するものは病となります。
どのような脉状のものを反するというのでしょうか。
然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が厭厭聶聶として楡葉を循るようなものを平と名づけます。さらに実して滑となり、長竿を循るようなものを病と名づけます。急で勁となり、ますます強くなって新たに張ったばかりの弓の弦のようなものを死と名づけます。春脉は微弦のものを平と名づけます。その弦が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。弦脉だけが触れて胃の気のないものを死と名づけます。春の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。


春の脉状は弦で、濡弱で長いものです。外から来た病は邪が盛なため脉が強くなります、内が衰えたためになる病は正気が損なわれているため脉も虚します。厭厭とは厭足という意味で、気が満ち足りている状態を表わします。聶聶(じょうじょう)は聶片という意味で、形が扁薄である〔訳注:偏平で薄い〕ことを表わします。楡葉(にれのは)の形は、厭厭として生気が充長しており、聶聶として形質が軟弱です、このような脉状が平脉です。竹竿は長く堅く光滑〔訳注:滑らかでつややか〕です。濡弱な脉状から変化して滑実の脉状になったわけです。このような脉状のものは病脉です。新たに張ったばかりの弓の弦は、緊急勁強〔訳注:非常に緊張し堅くつっぱっている状態〕で和気がないものです、ですからこのような脉状を呈する場合は死にます。胃気とは生気のことであり、生気のある状態とは和緩がある状態のことです。万物の生は柔弱であり死は枯槁であると言われているのが、この事のことです。






夏脉は鈎、これに反するものは病となります。
どのような脉状のものを反するというのでしょうか。
然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が累累として環のようで、琅玕を循るようなものを平と名づけます。脉気が来る状態がますます数となり、鶏が足を挙げているようなものを病と名づけます。前が曲り後へ居して、帯鈎を操るようなものを平と名づけます。夏脉は微鈎のものを平と名づけます。その鈎が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。鈎脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。夏の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。


累累とは、累続して旋転することで、環に切れ目がないように円動滑利する〔訳注:コロコロと丸く滑らかに動く〕状態を表わします。これは脉が来る状態が疾いことを意味します。琅玕を循るとは、温潤下曲の〔訳注:温かく潤うことによって下にゆったりと垂れ下がる〕状態を表わしており、脉が和していて去る状態が遅いことを表わします。鶏足は、その指の爪が鋭く尖っており、その脉動は数で疾く、温潤ではない状態を表わしますので、病脉であるとします。けれども鶏は血気に属していますから、まだ和気を感じることができ、和気が全くなくなっている帯鈎のような状態ではありません。帯鈎の形は堅くて曲っています。脉が来る状態は曲鋭〔訳注:鋭く曲がりとげとげしい状態〕であり、脉が去る状態は堅牢です。和気が亡び去り死にかかっている状態です。居とは、鞏固に執滞していて〔訳注:頑固に今いる場所に執着していて〕その居場所を去ろうとしないという意味で、その脉状が遅緩でなかなか去ろうとしない状態を表わします。






秋脉は毛、これに反するものは病となります。
どのような脉状のものを反するというのでしょうか。
然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が藹藹として車蓋のようで、これを按ずるとますます大となるものを平と名づけます。上らず下らず鶏羽を循るような状態のものを、病と名づけます。これを按ずると蕭索として毛が風に吹かれるような状態のものを、死と名づけます。秋脉は微毛のものを平と名づけます。その毛が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。毛脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。秋の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。


車蓋の形は軽虚で軟大です。藹藹とあるのは集まって浮かんでいる状態を表わしています。そのような脉状のものを按じて大のものは微毛です。毛が多いときはその脉状が大とはなりません。大は沈位にも浮位にも脉気が満ちている状態ですので、これを平と名づけます。その上って浮かず下って沈まないものとは、脉が枯渋していて大ではないものです。鶏羽は軽虚ですが軟大ではありませんし、車蓋のように浮沈飄揺の象〔訳注:浮いたり沈んだり飄々と揺れている状態〕を呈しません、ですから病脉とします。毛が風に吹かれる状態とは、その軽虚の状態が非常に甚だしいということを表わします。このような脉状で軟大を含んでいるものは、蕭散索尽として〔訳注:荒縄がほどけるように清々と散じ尽す状態で〕木の葉の飛び去るような状態です。ですから死にます。






冬脉は石、これに反するものは病となります。
どのような脉状のものを反するというのでしょうか。
然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が上大下兌、濡滑で雀の啄むような状態のものを、平と名づけます。啄啄と連属して、その中に微曲するものを、病と名づけます。その脉が来る状態が解索のようであり、去る状態が弾石のようなものを、死と名づけます。冬脉は微石のものを平と名づけます。その石が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。石脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。冬の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。


上大下兌の脉状とは、按ずると濡大で、重く按ずると兌疾〔訳注:つるつると疾い状態〕のものを言います。この上下は浮沈という意味で、上部下部という意味ではありません。雀は小鳥でチョンチョンと軽歩してものを啄ばみます。その歩き方は軟大で〔訳注:軟らかく大きくて〕、その啄ばむ姿が滑疾な〔訳注:滑らかで疾い〕ので、平脉にたとえています。啄啄と連属して絶えることがない状態の中で曲り沈むものは、その沈実の傾向が甚だしいということを表わしていますから、病脉となります。解索とは縄索〔訳注:なわ〕を解散する〔訳注:ほどく〕ことで、その濡大の脉状が散乱するに至ったものです。弾石とは堅い石が弾けたり撃ちつけたりするような状態を表わしています。このような脉状で滑実のものは和を失ってしまっているので、死にます。






胃は水穀の海です。四時に禀けることを主ります。皆な胃の気を本としています。これが四時の変病、死生の要会です。脾は中州です。その平和な状態を見ることはできません。衰えることによって始めて現われて来るからです。その脉が来る状態が、雀が啄ばむような状態であったり、水が下に漏れ落ちるような状態のものは、脾が衰えることによって現われています。


胃は水穀を受けます、これは海が川の流れを受け容れる状態に似ています。四時〔訳注:四季〕の臓気を受けてこれを栄養していきます。このように四時の臓気は皆な胃の気を本としているのです。本とあるのは、人の身体の本が胃の気にあるということを言っているのです。胃の気があるものは生き、胃の気がないものは死にます。ですから胃の気を死生の要津とするのです。変病の要会は、上文における四時と胃の気とを結合することによって考えることができます。脾は中央に位し、四時に寄生しています、ですから平和なときはその独自の脉状は表われませんが、衰えたときは四臓と離れるのでその脉状が表われます。雀啄は鋭く疾く倫次〔訳注:順序〕がありません。その鋭さは和を失っていることを表わしており、その疾さは緩を失っていることを表わしています。水が漏れるような状態は、衰え遅くなって消え去ろうとしている状態であることを表わしています。この脉状は、緩が甚だしいために中を失い、羸衰した〔訳注:やせ衰えた〕ために和を失った状態を表わしています。雀啄は偏陽を表わし、下漏は偏陰を表わし、共に中気を失っている状態を表わしていますので、死にます。


問いて曰く。腎の平脉に雀啄という言葉が出ていますが、ここでも雀啄という言葉を使っているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。腎では上大下兌で濡滑の脉状のものを形容して雀啄とう言葉を使っていますが、ここでは和気が絶した脉状が、堅く鋭く極まった状態となったものを形容するために雀啄という言葉を使っています。言葉は同じですがそこに含まれる意味は全く異なります。



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