死生存亡



第十七難の概要は、最後のところで広岡蘇仙が述べている、「陽病に陽脉を得、 陰病に陰脉を得るものは順であり、気血がその常を得ているので生きます。これに反するものは逆であり、気血がその常を失っているため死にます。死生の要を知るということは、その陰陽順逆を知ることにほかなりません。」という言葉に集約されています。

そこで、十七難を勉強していくにあたり、死生に関して取り上げられている《難経》の条文と、それに関連するものを取り出してみました。ここには、《難経》の死生観が顕われており、それは治療というものを考える上で、ある示唆を与えてくれるでしょう。

ここにあげられているものは、人の死生に関して《難経》において記載されているものの、すべてにあたります。それらを、十七難にしたがって、1、『治療しなくとも癒えるもの』2、『長い年月にわたって癒えないもの』3、『病気になって死ぬもの』に分け、それぞれを解説している各難に、リンクを貼っています。勉強会では、少しづつ読みながら原文を読みという具合で進行しました。







全体を簡単に見渡して見ますと、

1、まず、大原則が述べられている部分が第八難にあたります。すなわち『気〔伴注:生気の原:腎間の動気〕は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。』というところですね。

さらにこれが少し敷衍されて経と脉という概念を用いて述べられているところが第二十一難、『人の形が病んでいて脉が病んでいない場合は生きると言い、脉が病んでいて形が病んでいない場合は死ぬと』いうところです。

すなわち、気そのもの、生命力の根源は腎間の動気にあるということを明確にした上で、肉体と(生命力の別の表現であるである「気」の現れである)脉との位置関係が明確にされているわけです。







また、脉と呼吸との密接な関係の詳細に関しては、十四難で述べられておりました。十四難で大切なことは、八難で述べられている位置の確認、すなわち『脉にも根本があれば、その人には元気があるということなので、死ぬことはないと』〔注:十四難〕いうところにありました。

八難では、全身の生命力としての気の根源としての腎間の動気ということが述べられており、十四難では、全身の生命力の表現としての寸口の脉とおける根源が尺の部位にあるということを、それぞれ同じような言葉、すなわち樹の根と枝葉との関係として表現しているわけです。







ここには、一元の生命の表現として存在する人体そのもの、身体全体とその中心(根:生命力の根源:腎間の動気)という考え(八難)と、その同じ一元の生命力の局所的な表現として存在していると考え出された脉処(寸口の部位)にも同じように中心(根:尺位の脉)が存在するという考え方(十四難)が、まさに対比的に同じ「枝葉」と「根」という言葉を用いて表現されています。

このことはとりもなおさず、《難経》の生命観が、全体像としてみると一本の樹にたとえられうるものであり、その一本の樹の豊穣な表現としての枝葉に凡人の目はいきがちなわけですけれども、その豊穣な生命力の中心は実は根にある、と、そういうことを喝破しているのだということを意味しています。このことは非常に重要なことなので、かりそめにも東洋医学というものを行じようとするものは、金科玉条として常々反芻し、身に着けていかなければならない概念であります。







しばし余談。

以上は個人としての生命に取り組むいわば道教的な個人主義的な発想に基づいた人間観でありますが、このことは、一元としての生命を保持する家族や地域共同体にも言えることであり、また、一元としての生命・文化・伝統を保持している国家についても言え、さらには、地球そのものを一元の生命として把えたときには、その根とは何か枝葉とは何かという発想の下に、地球社会のあり方を構想する基本となると思います。

現在、日本社会では左翼がグローバリズムの信奉者として自由と民主主義と平等を提げ、保守派が文化と伝統とを守るということで対立しているように見えますが、実はこれはその根本を眺めていきますと、この生命観の対立ということになります。

すなわち、個人主義によって、個人の優位性によって世界を解釈するのか、それとも伝統の流れの中で歴史に育まれた個人という位置づけの中で、生命としての地域社会・国家・地球にその優位を置くのかということです。

個人主義はいわば、枝葉(あるいは、そのなかのごく一部の細胞)がすべての世界でありますが、生命主義はいわば、全体性の中で個々の人間存在を「自らの分を知る」という観点から把握しなおし、その自身の「分際」の中で生命をまっとうしようという発想となります。この二者には非常に大きな違いがあります。

王者にとって、自己の「分際」を知るということは、天地の間にあってその支配者たるの位置を明確にしその責任を引き受けるということとなります。これを古来「天命を知る」と支那では語り継いできました。それに対して一般人が「天命を知る」ということは、自身の分を知り、その分を全うするということになりましょう。

このように考えていくと、いわゆる民主主義は、自身の分際を超えた社会への深い理解なくしては成り立たない制度でありまして、個人に対して非常に重い負荷を与えるものです。ですからその矛盾が噴出する状況に陥ることはやむをえないと言わなければなりません。この矛盾の最たるものが、危機的状況において、全体をしっかり理解していると思えるような強力なリーダー、ヒーローを求めるという社会現象をおこします。これが世界でもっとも民主的であるといわれたワイマール憲法下で、ヒットラーのようなファシストが政権を得た理由です。

また、奔放な自由主義は、まさに、枝葉が枝葉として、根が根としてその生命を全うするということを拒否する姿勢を伴います。そのため、社会という生命体、国家という生命体、地球という生命体は、いずれこの思想によって滅ぼされることになるでしょう。その渾沌の底にあるものは、甚だしい無秩序状態、弱肉強食の社会です。まさに自由主義はまさに乱世を求める思想ということとなります。

さらに平等主義は、まさに自己の「分」をわきまえることのできない、生命体としての社会という、存在様式に眼差しがまだ向いていない、非常に未熟な思想であるということが理解されましょう。

自由・平等・民主主義の発想はこのように非常に偏跛で未熟な思想です。

にもかかわらず、なぜ、世界がそれを信奉しているように見えるかというと、これを真理とし教条主義的に、あるいは自分の都合のいいように解釈して宣伝している軍事大国、アメリカ合衆国が存在するからでしょう。

それはまた、ヨーロッパという、不断に戦争を続けている国家群の国民が、国家という生命体に辟易とし、そこからの解放、それへの裏切りを思想的に表現した結果であるとも言えるでしょう。

しかし、この発想に基づいて世界戦略を推進している合衆国や経済界に対する、反グローバリズムの流れが深く広がっていることからまた考えていくと、現在は、生命主義への回帰の入り口に至っているのではないかと予測させもします。

また、西欧諸国においても、自然を大切にするというエコロジーの発想を通じて、ふたたび生命主義に基づいた国家を形成していく種が播かれているとみることもできるかもしれません。

しかし、その思想の深化は、個人主義的な思想しか持ち得なかった欧米の諸民族には、非常に困難であり、かつ険しい道を辿らなければならないでしょう。







自由・民主主義・平等、という言葉についていま少し考察を加えるならば、これは、戦乱の世界の中にあって、個人々々がどのようにその人生を活き活きと生ききれるかという観点からの、個人の活性化のひとつの道筋であったとも考えられます。

歴史や伝統という価値が重んじられる社会、の中に位置づけられた個人ということを、そのような伝統的な社会から分離した観点から思い描くとき、それは、非常に束縛されて不自由な、まるで個人の尊厳が否定されているように見えます。

しかし、個人の価値とか個人の幸福とは何かということをもっと突き詰めて考えるならば、それは、個々の「天命を知り」そこに「人事を尽くす」ということに尽きる、ということに気がつきます。そしてその「天命を知る」ということの内容は、上記しましたように、「自身の分を知る」というところにあります。己の分際を知り、その中で生ききるということ。このような人生の限り方が、我々凡人にとっては、真の幸福への近道であろうかと、考えるわけです。

このように、伝統の中に自己の「天命」を見つけた人々の幸福は、自己の分際の中で自己陶冶していくことの中にあったのだということを、よく理解しなければなりません。







現代、テロとの戦いという言葉と共に、平和のための戦争が準備されています。平和とは何か、これが問われている時代であるといっても良いでしょう。

平和とは何か。それは秩序が保たれているということを意味しています。秩序が保たれているということは、革命的ではないということです。つまり、自由・平等・民主主義を追及する過程で起こる社会変革の波頭を避けるということです。それはつまりは、伝統的な価値観にしたがって生きるということです。秩序にしたがいそれを守るということ、この愚直な行為の連続こそが平和への道なのですね。

合衆国の矛盾は、自身が自由と民主主義という概念の体現者であり、自身を正しいとしてその文明という名の価値観を他者に押し付け、他者の社会構造を破壊しようとしていながら(つまり、思想戦において戦争を仕掛けながら)、それに対する抵抗を武力で弾圧していることです。

これはまさに、戦争をしかけておいて、抗うものを否定するという行為であり、これこそがマッチポンプという名にふさわしい行為であると言えましょう。







2、『治療しなくとも癒えるもの』は、五行の相生関係にあると見られるものであると《難経》ではされています。それは、脉と症状との相生関係、『その色を見てもその脉を得ることがなく、反って相勝の脉を得るものは死に、相生の脉を得るものは病自ずから癒える』〔注:十三難〕、病の伝播における相生関係〔注:五十三難:間臓〕について言えるものであると述べられています。







3、『長い年月にわたって癒えない』ために形成されるものの代表として積聚があげられています。積聚に関しては、その基本的な考え方が五十五難に、五積の弁別が五十六難に述べられています。これを押さえた上で、その脉状との対応関係の中から死生を判別しようとしているものが十八難の後半三分の一の部分です。

すなわち『沈滞して長期にわたって積聚している病人がいますが』という語り方で積聚を取り上げ、『その脉状が結伏していながら内に積聚がなかったり、その脉状が浮結していながら外に痼疾ない場合や、積聚がありながらその脉状は結伏していなかったり、痼疾がありながらその脉状は浮結していないような場合は、脉状が病と対応せず、病が脉状と対応していません。これを死病とします。』と判じているわけです。







4、『病気になって死ぬもの』は、五行の相勝関係にあると見られるものであると《難経》ではされています。それは、脉と症状との相勝関係、『その色を見てもその脉を得ることがなく、反って相勝の脉を得るものは死に、相生の脉を得るものは病自ずから癒える』〔注:十三難〕、病の伝播における相勝関係〔注:五十三難:七伝〕について言えるものであると述べられています。







5、では、治療する側の巧拙とはどのようなものなのでしょうか。このことについて、十三難の最終段に『経に、一を知るものを下工とし、二を知るものを中工とし、三を知るものを上工とし、上工は十に九を全くし、中工は十に八を全くし、下工は十に六を全くすと語られているのはこのことを指します。』と、かなり抽象的に述べられています。

六十一難には、『望んでこれを知るを神と言い、聞いてこれを知るを聖と言い、問いてこれを知るを工と言い、脉を切してこれを知るを巧と言う』という経文を解釈しながら、形という見やすいものから、気という見にくいものまでを診察するための四診の意味について述べています。

七十七難には、『上工は未病を治し、中工は已病を治す』という経文の解釈を通じて、病情の経過を推察することができずに目の前に現れている四診にしたがって治療するものを中工とし、病因病理をよく考えて病情がどのように経過していくのかということを考慮しながら治療することが未病を治すということでありこれを上工というのであるということが明確にされています。







2002年 10月 6日 日曜   BY 六妖會




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