第 二 難

第二難




二難に曰く。脉に尺寸があるとは、どういう意味なのでしょうか。


五度は分・寸・尺・丈・引という長さの単位です。その中で、尺は五度の中(ちゅう)〔訳注:真ん中〕にあたり、日用される中心となる単位です。上古の時代の質朴な人々は、人の身体を基準として度量〔訳注:長さや重さ〕を定めていました。両指を開いて並べて尺とし、指の関節を屈して寸としました、これが同身寸における尺寸です。《難経》でもこの五度を用いて脉法の度を定めています。






然なり。尺寸は脉の大要会です。


尺は陰であり寸は陽です。陰陽は千変万化の根元なので、陰陽消長の機微を理解することができれば、この天下でなすべき最も大切なことは理解できたといえます。ですから脉について理解できることはもちろんのことです。陰陽は万象万理〔訳注:あらゆる法則あらゆる現象〕の本体ですから、その大いなること全てを満たし、その肝要なること全てを包括し、その会するときは全てを総括するのです。もし陰陽の機微を用いて考えることができなければ望洋として〔訳注:まとまりがなくなり〕明晰さを失ってしまいます。そのため、尺寸は百脉が要会する上で最も大いなることであると語っているわけです。






関から尺に至る部分は、尺の内であり、陰が治める場所です。関から魚際に至る部分は、寸口の内であり、陽が治める場所です。


尺寸の境界を関といいます。尺寸の場所は入り乱れることがありません。それは、関所の門がしっかりしているようなものです。関の中心から肘に向かって尺沢までの間は一尺あります。ここは陰気が治める場所です。尺膚診をする所でもあります。関の中心から手首の方、魚際までは一寸あります。ここは陽気が治める場所です。百脉が太淵に会するまさにその場所です。






つまり寸を分けて尺とし、尺を分けて寸としているわけです。


上文では関を用いて尺寸を定め、ここでは尺寸自身を交互に用いて尺寸を定めています。なぜこのような回りくどい説明をするのかというと、関を用いて尺寸を定めたことだけを書いてしまうと、関という場所がまた別にあると誤解する者が出てくることを恐れたのでしょう。そのためこのように繰り返し、関という場所が別に存在するわけではない、寸の場所を分けてその余りを尺とし、尺の場所を分けてその余りを寸とするのだということを明確にしているわけです。本当にこの文章は簡潔に書かれていながら非常に奇な〔訳注:優れた〕ものです。魚際から尺沢までを一尺とする者もいますが、それは全くの誤りです。試みに大指と中指とを開いて計ってみると、尺沢から関までいくことはできますが、魚際までは決して届きません。このことは古代、尺とは指を開いた状態であるとされていることと符合します。






そのため、陰は尺の内の一寸を得、陽は寸の内の九分を得、尺寸終始で一寸九分あるということになるわけです。


陰は陰の極数〔訳注:極まった数。十の中で陰の最大の数は十であり、陽の最大の数は九となります〕である十分を得、陽は陽の極数である九分を得るということになります。終始とは、首尾〔訳注:頭から尻尾まで、つまり全体〕のことです。尺寸の場所は、一尺一寸ありますが、そのうちの首尾一寸九分を脉処としているわけです。






このようにして尺寸と言っているのです。


問いと言葉を合わせて文を結んでいます。この篇で語っている尺寸は、陰陽が横の関係で並んでおり、左右の意味があります。四難に語られている浮沈の観点は縦の関係で、上下の意味があります。



一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ