二一難の検討



多くの書物では、この答辞の部分には言葉が不足しており、ここには脱簡があるに違いないと述べられています。これは、元代の滑伯仁《難経本義》の注に基づいています。質問と答えが合っていない、というのですね。本間詳白の《難経の研究》ではすっかりそれでびびってしまって、『充分に理解できない』と述べてあります。しかし、《難経の研究》において参考書としてあげられている《難経鉄鑑》には、このあたりのことを、

『問いて曰く。本文の答の中に、脉が病んでいて形が病んでいない場合について触れていないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。脉が病んでいて形が病んでいない状態とは、十四難の行尸の類になります。ですからここではその重複を避けているのです。 』


という風に明確述べており、疑問の余地はありません。《難経の研究》で参考にしたのは、背表紙だけだったということなのかもしれません。







多くの書物にこの二十一難の解説のようにして参照されているものに、《傷寒論》の〈平脉法〉の文章があります。

『脉が病んでいて人が病んでいないものを名づけて行尸と言います。王気がないため、突然めまいがして倒れたり人事不省になったりするものは、短命で死にます。人が病んでいて脉が病んでいないものを名づけて内虚と言います。谷気がないだけなので、苦しんでいても予後不良ということはありません。』


と。

清代の徐霊胎は、この〈平脉法〉の文章によって《難経》の『意味が明瞭になった』と述べております。しかし《難経鉄鑑》の解説は、歴代の解説書の中でもっとも明瞭にこのあたりのことが解釈されています。







《難経》原文に、『これが大法です』とあるように、呼吸(気)と脉(血)が相互に密着しているということが、元気で生きているということの基本的な姿なのであるということは、人身理解の中心にしっかりと置いておかなければならないことでしょう。









2001年9月16日 日曜   BY 六妖會




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