第 二十二 難

第二十二難




二十二難に曰く。経に、脉には是動病と所生病とがあると述べられています。一脉が変化して二種類の病を表わすのはどうしてなのでしょうか。


上難では脉状と呼吸との対応関係について説明しました。この難では気と血とについて対応させて論じています。気血の病を経脉との関連で把えている理由は、経脉というものが栄血や衛気が運搬される通路だからです。けれども、病というものは気血の外に存在するわけではないのですから、経脉だけに気血の病があるという風に考えてはいけません。気血の気は、形がないため動きやすく、血は形があるため凝縮しやすいものです。経脉が動くということは、気血によるものなので、経脉の変動は二種類の病となるとされているのです。これがつまり、是動病と所生病であり、このうちの是動病とは風によって樹木が揺り動かされるような状態のことであり、所生病とは樹木に虫が生ずるような状態のことです。このように是動と所生ということでは異なりますが、どちらも経脉を傷るということでは同じです。






然なり。経に、是動は気であり、所生病は血であるとあります。


病の種類は非常に多いですが、是動病と所生病にすぎません。その是動病か所生病かということの基本は気血にあります。是動病としては、恐れるときは気が下り・怒るときは気が逆し・冷えるときは気が収斂し・温かいときは気が緩むといった類、また狂妄・眩悸・寒熱〔訳注:悪寒発熱〕・煩喘といった類があります。陽に属して形がなく、よく変化して一定の状態を守らない病は、全て是動病です。所生病としては、積を生じ・瘕を生じ・<瘀を生じ・瘤を生じ・癰を生じるといった類、また腫脹・蛔虫・吐瀉・血汗といった類があります。陰に属して形がある病は、全て所生病です。このように区分することはできますが、気の病であっても所生病のものがあり、血の病であっても是動病のものがありますので、《内経》においても明確な区別はなされていません。


問いて曰く。水穀によって痰滞〔訳注:痰の滞り〕を生じた病が、血に属するとされるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。人身の陰陽は、気血が主ります。病が陽にある場合は是動病であり、陰にある場合は所生病です。このことから、是動病は気が主り、所生病は血が主ると言っています。この難では、是動病と所生病とを主として気と血とに配しています。ですから血の凝滞したものを特に所生病であると言っているわけではありません。






邪が気にあれば気が是動病を呈し、邪が血にあれば血が所生病を呈します。


邪が気の分野に入ると気が動じて病を生じ、邪が血の分野に入ると血が動じて病を生じます。内傷病であれ外感病であれ、病と名のつくものは全て正気を害したものです。ですからこれを一括して邪と呼んでいます。






気はこれを呴することを主り、血はこれを濡すことを主ります。


気は四肢百骸〔訳注:全身〕を呴嘘する〔訳注:口をあけて息を吹きかける〕ことによって温めます。血は内外全身を濡潤する〔訳注:濡らし潤す〕ことによって養います。気は橐籥(たくやく)〔訳注:鍛冶屋で使用した火をおこす道具、ふいご〕のようなものです。中は空虚ですが力がないわけではなく、ひとたび動くと次々に空気が出てきます。このような気の動きの中に「静」があります、この「静」の中で血が生じます。血は雨露にたとえられます。あらゆるものを潤すことによって生長させます。

天は気であり、呴温〔訳注:息を吐きかけて温めること〕は気の用〔訳注:作用〕です。地は水であり、濡潤は水の用です。気と水とは陰陽が発動したものです。春や夏の気が充実する時期には水雨が四沢〔訳注:すべての川や沢〕に満ち、秋や冬の気が枯れる時期には水泉が涸れて底の石が露われてしまいます。

天地はただひとつの気です。その用として気の中に陰を生じて、気を水とします。気は霽(はれ)〔訳注:晴れ間〕であり、水は雨です。雨と霽とが順調に現われるとき、五穀は豊かに実って天下太平となります。

人の身体は水であり、それを発動させるものは気です。気血がよく調和して温煦され濡潤されていれば、臓腑が盛になり全身が元気になります。少壮〔訳注:少年から壮年まで〕の者は気も水も充実しているので、その身体は肥えて潤っています。これに対して老耋(ろうてつ)〔訳注:老人〕は気も水も涸れてきているので、その身体は痩瘁(そうすい)して〔訳注:痩せてやつれて〕います。

ああ、万物の生は気と水とが集会したものであり、万物の死は気と水とが離散したものなのです。男女が婚媾することによって子供が生まれるということも、気と水とが会することを表わしています。気が集まれば水が生じます。ですから情愛の心が強くなると精水が泄れ、食欲がおこると涎が溜り、悲しみが迫ると涙や鼻水が流れ、恥ずかしさが昂じると冷や汗が出るといったことが起こるのです。

人というものは、よく活動すれば気が外に溢れて皮腠が熱し、冬であっても汗を流しますし、長時間安静にしていると気が内に収斂されて身体が冷え、暑さの中でも汗をかくことがないものです。このように、活動をするということは表を温めるということであり、安静にするということは裏を養うことです。動と静とを上手に使い分けることが、長生久視〔訳注:長生きし視力も衰えない状態〕の道となります。


問いて曰く。気息〔訳注:呼吸〕には嘘呵吹などの種類がありますが、どうして呴だけを例としてあげているのでしょうか。

答えて曰く。呴とは呴嘘のことであり温かい息という意味です。温かい息を吹きかけると、その息の中に津液〔訳注:水蒸気〕が生じます。これは気の中に血を生じた状態です。これはたとえば、天気が温かいときに万物が萌え動き出してそこに光沢を帯びるようになることと同じことです。ですから呴を例としているのです。

また鼻は肺に属し天気〔訳注:天の六気〕に通じている場所であり、口は脾に属して地味〔訳注:地の五味〕が入る場所です。呴が口から出るということは、陽気が陰の中から出ているということを意味しています。これはつまり天気が地中に入り、それがふたたび地中から発生しているような状態です。冷息は口から出ているとしても暖かくはないのですから、鼻から出ているのと変わりありません。陰陽が互いに調和していないということは、天気が冷えて庶類〔訳注:万物〕が伏蟄して〔訳注:伏しこもり〕発育する力が出ないような状態です。

また、兵士が刃に呴し・拳家が掌に呴し・咒術をかける際に物に呴し・護法をする際に妖に呴し・寒いときに手に呴し・羸疾(るいしつ)〔訳注:痩せて虚弱となる病〕の場合に臍に呴し・小児の大泉門に呴し・趺撲に呴し・金瘡に呴し・虫毒に呴するといったことをするのは、呴することによる陽気によって陰邪を払おうとするものです。

冷息を吹きかけるということは、羹(あつもの)を吹いてその熱を奪い・目を吹いてその眯(めやに)を擺(はら)い・塵沙を吹き去り・燈燭を吹き消し・火筒を吹き・笙笛を吹くというように、全てその陰気で冷やし陰気で柔げているものですので、これをとらなかったのです。人の呼吸の暖寒というものは、呼吸の間に変化します。ですからこれを寒熱の霊薬とします。六息・七十二息等の方法〔訳注:呼吸法の種類か〕で病を治療し長寿を保つことができる理由がここにあります。






気が留滞して循らないものは、気が先に病んだものと考えます。血が壅滞して濡らさないものは、血が後に病んだものと考えます。


気が留滞して循らない理由は、邪が気にあるからです。血が壅滞して濡らさない理由は、邪が血にあるからです。そもそも病の始めには気が先に病み、気の留滞に従って血が壅滞するようになります。これがつまり血が後に病むということです。気血は本来ひとつのもので、気は陽に属するために先になり、血は陰に属するために後になります。例をあげると、人に罵られる場合を邪とします、罵られて怒るということは気が動いたのです、顔が赤くなればそれは血の病を生じたのです。このように、怒りには形はありませんが、顔が赤くなるとそれが形として現われてきます。形がないものが先に動き、形があるものは後に生ずるのです。傷寒の症状で考えると、悪寒するということは気が動いたということですが、顔色が青くなっているものは血が病を生じたものです。他の病も全てこのように考えていくことができます。


問いて曰く。血崩・金瘡〔訳注:刀や刃物による切り傷〕などの病は、血が先に病んでいるのではないでしょうか。このようなものも血が後に病んでいると考えるのでしょうか。

答えて曰く。物事には本と末とがあります。崩漏の類の本には、寒熱〔訳注:ここでは外寒や外熱のこと〕や飲食〔訳注:の不摂生〕等によって先にその気が動じ、後に血を病んで崩漏といった疾病となります。また婦人の分娩のときなども、気が先に動いてから血が濡潤し、出産に至ります。これもまた気が先に動じたものです。金瘡の場合も同じことです。痛みを感じるということは気が動じたということを意味し、血が出るということは血が生じたということを意味しています。ですから、金瘡にあっても痛まない場合は血が流れません。これは、気が動じないときは血もまた循ることがないということを示しています。






ですから是動病が先に起こり、所生病が後に起こることになります。


この難では、問いの部分で、ひとつの脉が変化して二種類の病を呈するということに対する疑問を提示していました。そしてその答として、ひとつの脉が変化して二種類の病となるわけではなく、気と血という分類がそこにあるだけであるということを述べ、その答には五重の意味が含まれているということが示されています。一つは是動病と所生病とは気の病と血の病のことであるということを示し、二つには邪が気と血とに入ることによって是動病と所生病という形を取るということを語り、三つめには気の温煦作用と血の濡潤作用とについて語り、四つめには気が先であり血が後であるということを語り、五番目に結文として問いかけの言葉に合わせています。


この難では、是動病と所生病という二種類の病によって気と血との区別をしています。一難では死生吉凶を説明していくのに、栄衛の度〔訳注:栄衛の循行回数、ひいては栄衛の調和度を寸口の部位で観察するということ〕によって考えました。栄衛の度が常態であれば病となることはなく、栄衛の度が食い違ってくると病となり、栄衛の度が乱れるときは非常に危険な徴候となると考えていったわけです。病の種類は非常に多いですが、気血栄衛以外には病は存在しません。後人に、気・血・飲を病気治療の綱要として掲げた者がおりますが、真に理にかなったことであると言えます。



一元流
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