第 二十八 難

第二十八難




二十八難に曰く。奇経八脉なるものが、十二経に拘わらないのであれば、それらはどこから起こってどこに継いでいくのでしょうか。


前難では奇経が正経に拘わらないという理論について説明しました。この難では、そのような奇経が発する場所と次に連なっていく場所とについて聞いています。






然なり。督脉は下極の兪に起こり、脊裏に並び、上って風府に至り、入って脳に属します。


人身の下の至極とは二陰のことです。前陰は前にあって水気を通じ、後陰は後ろにあって穀滓〔訳注:大便〕を出します。後陰は前陰と比べるともっとも卑(ひく)い場所になりますので、後陰を下極とします。「兪」とは下極の穴のことですから、長強と名づけられ、脊骨のもっとも下に位置します。風府は頚項の上際にあります。人の衣服はこの上際まで覆うことができないので、いつも風寒に冒されていますので、風府と名づけられています。この「府」とは物が集まる場所であるということを意味しています。項頂は山のような感じで、陰精が奉ずる場所であり、風寒が多いものです。ですから古来より護項〔訳注:項を護るための衣服〕を作って風寒を防いでいるのです。脳は頭の中にあり、髓液を入れている器です。人の骨の中にある髓液は全て脳に注ぎこみます、その髓液が七竅を潤しているので見聞することができるのです。督脉は下際から上際まで至り、脊中をまっすぐに貫いている経脉です。人が正座する時、脊骨を直立させて傾かせることがないのは督脉の力によります。ですから督脉が丈夫でない場合には脊骨が曲がり、躯僂や亀背等の症状を呈します。


問いて曰く。脉というものは本来肉の中にあるものです、今、脊骨の裏を行くとしているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。脊とは背の正中線を指して言っています。骨のことではありません。脊裏とは背肉の裏のことです。脊中に大きな骨がありますので、脊骨をまた脊とも呼んでいます。






任脉は、中極の下に起こり、毛際に上り、腹裏を循り、関元に上り、喉咽に至ります。


臍下は人身の中枢であり、皇極の〔訳注:もっとも大切な〕場所です、ですから中極と呼んでいます。この中極には経穴があり、この穴もまた中極と名づけられています。臍は人身の中央にありますので天枢と呼ばれており、その場所の穴も同じように天枢と名づけられているようなものです。中極はまた腎間の動気の存在する場所であり、中極の下際は前陰にあたります。前陰は、腎気が肝の体に依拠して外に発動したものです。前陰は男子にあっては玉茎・睾丸と名づけられており、女子にあっては玉門と名づけられています。共に筋の集まる場所です。ですから亀頭は伸縮してその用〔訳注:機能〕をなし、腎気の機発〔訳注:機能の発現〕に繋がるためにまた外腎と名づけられています。嚢中の両丸は両腎に象られ、朱龍〔訳注:亀頭〕が踊躍する姿は腎間に動じた一陽が外に形として現われ出したものと考えられます。龍は水木の精であり、その体は大きくなったり小さくなったり自由自在に変化して雲雨を起こすものです。その朱龍が鳳池〔訳注:宮中にある鳳凰が棲むという池〕に浴し、霊台〔訳注:天文を見て災いを占う場所〕で戦い珠を吐くとき、最後には玉鱗を生じます。真にこれこそは生生の伝器であると言うことができるでしょう。丸は陰であり静であり体であり下にあります。茎は陽であり動じ、用であり上にあります。男子は外を主りますので外に現れ、女子は内を主りますので内に伏しています。けれども女子であってもその体と用とは男子と異なることはありません。腎神の宮を中極と名づけているのですから外腎の在る場所もまた中極と名づけるべきでしょう。


任脉は陰部の下から起こるので、毛際に上ると言っています。この毛際とは陰毛の際です。関元は臍下の穴であり、これもまた腎元の存在する場所です。ですから関元と名づけられています。


喉は喉管であり呼吸が上に通じる門です、咽は咽管であり水穀が下に通じる穴です。喉は前にあって肺に属し、咽は後にあって胃に連なります。今拳法家の説に、「喉は肺気を結喉〔訳注:のどぼとけ〕の左に通じ、咽は胃気を結喉の右に通じます。左を風と名づけ、右を雨と号します」とあります。思うにこの説は、呼吸を風として肺管に通じるとし、水精を雨として胃管に通じるとしたものでしょう。仏教徒が、鼻息を風大とし腹輪を水大とするのと同じです。この拳法家が咽喉を左右に分けて考えるのは、一家の説です。また拳法家の説に、「縊死〔訳注:縄で首を絞めて死ぬこと〕するものの内、左右に傾いている場合には生きます、これは肺か胃か、どちらかが絶しているだけだからです。正中で絞められているものは死にます、肺胃がともに絶しているからです。また縄が細いときは死にます、縄が深く食い込むからです。縄が太いときはまだ生きている可能性があります、縄が浅くしか入っていず肺か胃か、どちらかが絶しているだけである可能性があるからです。」とあります。任脉は前陰から起こり、上って咽喉に至ります。これは気水が直接升降する通路ですから、拳法家がこの場所を殺活の大機とすることもまた理解できることです。この任脉が健康でなければ、少気・少食・隠曲が利さない〔訳注:・二便の失調 ・四肢の関節の失調 ・男女の前陰の性機能の失調〕等の症状を呈します。






衝脉は気衝から起こり、足の陽明の経に並び、臍を夾んで上行し胸中に至って散じます。


気衝の穴は股の上際にあり、足の陽明宗筋の機能を総括し、歩趨〔訳注:歩いたり走ったりすること〕の繋がる場所です。衝脉は発動の会合する部位に生じて陽明の陽気とともに上行して衝通し開散しますので、胸腹がすっきりと気持ちよくなります。この脉は腹部にあり、腹部は陰です。陰の中から陽を引いて升り、天衢(てんく)〔訳注:天道〕に通じます。ですからこの衝脉が健康でなければ、中満や痰飲等の症状を呈します。






帯脉は季脇に起こり、身を廻って一周します。


季脇は脇の季(す)えです。帯脉は、人体を上下に水平に分けた中心に位置し、輪のようにめぐっています。ですからこの帯脉が盛な場合には身体がよく引き締まって軽くなります。






陽蹻の脉は跟中に起こり、外踝を循って上行し、風池に入ります。


督脉は身体のもっとも下から起こりますが、これは人が座っている時にもっとも下になる場所です。それに対して蹻脉は足のもっとも下から起こります。これは人が立ったときにもっとも下になる場所です。四肢は動揺の器官ですので、下極とは言えません。これに対して胴体は陰静で動かないので、下極とすることができます。陽蹻脉は足の外踝から身体の傍側を上行します。傍側は険阻な場所ですから、その上行する速度は疾速です。その人がすばやく行動することができるかどうかということも、この陽蹻脉の機敏さに関わっています。風池の穴は風府の傍らにあり、風が行く場所です。この脉が健康でなければ、脚が弱くなり痿軟等の症状を呈します。






陰蹻の脉もまた跟中に起こり、内踝を循って上行し、咽喉に至り衝脉に交わり貫ぬきます。


陽蹻脉は背側を行き、頭の傍らの風池穴に会します。陰蹻脉は腹側を行き、胸の傍らの衝脉に交わります。陰陽は互いに助け合うことによって蹻疾の用〔訳注:敏捷さという機能〕を発揮します。






陽維脉と陰維脉とは全身を維絡します。溢畜しますから、諸経に環流し潅漑することはできないものです。ですから陽維脉は諸陽の交会に起こり、陰維脉は諸陰の交会に起こります。


陰陽の維脉は全身を維絡しており、浅深があります。けれどもその水は、溜〔訳注:水溜り〕・瀦〔訳注:ため池〕・瀬〔訳注:浅く疾い流れ〕等といった行潦〔訳注:地上の水溜り〕のような状態にすぎず、長流のような勢いがそこにはありませんから、諸経に潅注する〔訳注:水を注ぎかける〕ことはできません。このような理由から、この脉の起こる所は一定の場所ではなく、諸陽および諸陰の交会にあたることになり、脉度の数には入らないのです。この維脉が健康でなければ、全身が充実せず、勇猛さがありません。


問いて曰く。維脉は足に起こり頭に至ります。どうして一定の場所に起こらないと言うのでしょうか。

答えて曰く。維脉は足に至り頭に至って全身を維絡しますけれども、これらは全てその場所を通過するということを語っているだけであって起止を語っているものではありません。維脉が起こる場所は諸経の交会にあたります。たとえば水が溢畜して〔訳注:いっぱいに溜まって〕循らないとき、その水がどの場所を源としどの場所に委する〔訳注:属する〕か語ることができるでしょうか。その水の勢いがあまる場所を自ら流れているということは、水が集まっている場所を源としているということではないでしょうか。ですから本文でもその起こる場所を語らずに、「溢畜」という字を置いて、他の奇経との違いを表わしているのです。「諸陽の会」とは太陽と少陽との交会の類のことであり、「諸陰の交」とは少陰と太陰との交会の類がこれにあたります。






聖人は溝渠を図設しましたが、溝渠が満溢すると深湖に流れます、ですから聖人も拘わり通じさせることはできないと例えています。人においてその脉が隆盛であれば、八脉に入って環周することがありません。ですから十二経もまたこれに拘わることはできないのです。


溝渠が満溢すると自然に流れ出して湖中に入ります。聖人も溝渠に拘わって計疏する〔訳注:切り開いて通じさせる〕ことはできません。身中の諸脉が隆盛な場合には、この奇経八脉に入って溟溟〔訳注:奥深く知ることのできない状態〕となります。正経の十二脉がどうしてこの奇経八脉に拘わり通じさせることができるでしょうか。






その脉が邪気を受けて畜るときは腫れて熱します。砭でこれを射すわけです。


わずかにこの二文だけで全体を結んでいます。文章を頓挫させているのです。これまでは奇経八脉の常について語りました。そしてここでは奇経八脉の変について語っています。変というのは、その病と治法です。奇経八脉が邪気を受けた場合、その畜集する場所の水血が凝滞して腫満し、脉気が閉渋して熱痛します。このとき砭石を用いて刺射し、その濁壅を除き去るわけです。絡脉は肌表に浮かびますから、その邪気はもっとも膚浅な場所にあります。ですから九鍼を用いず、ただ砭石を用いているわけです。



一元流
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