第 三 難

第三難




三難に曰く。脉には太過があり、不及があり、陰陽相乗があり、覆があり、溢があり、関があり、格があると言いますが、この意味は何なのでしょうか。


「太過」「不及」とは陰陽の虚実のことです。この虚実はあらゆる病を把握する際の要点となります。「陰陽相乗」とは、相手の虚に乗じて互いに侵し奪う状態ことです。「覆溢」とは水をたとえとして語っているものです。覆水とは、水の入ったお盆を傾けると水が下にこぼれるような状態であり、溢水とはお盆に水を溢れさせると流れ出すような状態です。「関」とは鍵をかけて防ぐという意味です。「格」とは堅く拒んで攻める状態です。これらは皆な陰陽が乖離しているためになります。陰陽が互いに和しているものは生き、虚実があるものは病み、陰陽が互いに乖離しているものは死にます。






然なり。関の前は陽の動ずる場所です。脉は九分の長さに表われて浮きます。これより大きすぎるものは法に太過と言い、これより減ずるものは法に不及と言います。


「動」は体勢のことを言い、「脉」はその流れのことを言います。経文では、動と言い脉と言っていますが、入れ替えて見ていくとまたそこにこの経文の素晴らしい美しさを見て取ることができます。浮を尺位における沈と対照させて考えるとき、少しだけ浮いているということを言っているのだということが判ります。病脉ではありませんので、混同しないようにしてください。太過とは、寸位の九分を越えるほど大きい脉で、その状態は平常よりも盛であり、陽盛の脉です。不及とは、寸位の九分に及ばないほど小さい脉で、その状態は平常よりも弱く、陽衰の脉です。二難に「治める」と語ってるのは、陰陽の位を分けたものであり、この難で「動」と言っているのは、陰陽の形状のことです。






魚にまで上ったものを溢とし、外関内格とします。これは陰乗の脉です。


陰陽は権衡〔訳注:さお秤〕のようなものです。片方が勝つともう一方は負けます。そのため、陰が勝つと陽はこれに対抗することができずにその治める場所から逃げ去り、魚に上るわけです。これは陰が上り犯したために亡陽の状態となったものです。「溢」とは、陽がその治める場所を失い溢れ出た状態のことです。「外関」とは孤陽が外にあって、陰を怖れて関を設けて防御しようとしている状態です。「内格」とは陰邪が内にあって陽に対抗して格拒しようとしている〔訳注:陽がその位、つまりその治める場所に戻ることを阻もうとしている〕状態です。






関の後は陰の動ずる場所です。脉は一寸の長さに表われて沈みます。これより大きすぎるものは法に太過と言い、これより減ずるものは法に不及と言います。


沈を寸位における浮と対照させて考えるとき、少しだけ沈んでいるということを言っているということが判ります。病脉の沈ではありません。「太過」とは、尺位の一寸を越えるほど大きい脉で、その状態は平常よりも盛で、盛なものは反って沈み方が甚だしいものです。陰盛の脉です。「不及」とは、尺位の一寸に及ばないほど小さい脉で、その状態は平常よりも弱く、弱いものは反って沈んでいないものです。陰衰の脉です。






尺にまで入ったものを覆とし、内関外格とします。これは陽乗の脉です。


「尺にまで入った」とは、陰が尺部一寸の場所を離れて尺沢の方に入っていくということです。これは陽が下り犯したために亡陰の状態となったものです。「覆」とは陰がその守を失い頓覆された状態のことです。「内関」とは陰が陽を畏れたために内に縮み、関を設けて防御しようとしている状態のことです。「外格」とは陽邪が外から陰を格絶しようとしている〔訳注:陰気がその位、つまりその治める場所に戻ることを阻もうとしている〕状態のことです。






そのため覆溢と言います。


二難では尺寸の「常」を言い、この難では尺寸の「変」を言っています。覆溢より大きな「変」はありません。そのため結びに覆溢をもってきているのです。この難でもっとも語りたかったことが覆溢だからです。






これはその真臓の脉です。この脉が表われた人は病気でなくとも死にます。


真臓の脉とは五臓の真の状態がそのまま現われたものです。魚にまで上ったものは陽の本真が現われて、上って下らなくなったものであり、これはすなわち、心肺の真臓の脉であると言えるでしょう。尺にまで入ったものは陰の本真が現われて下って上らなくなったものであり、これはすなわち、腎肝の真臓の脉であると言えるでしょう。このような尺寸の陰陽は、胃の気がこれを和します。そのため、脾の部を関という真ん中に置いているのです。その渾厚たる〔訳注:大きくどっしりと落ち着いた〕胃の気がなくなって臓気の本真が現われる状態をたとえれば、人が衣服を脱いで裸になっている状態と言えます。これはその人の本当の姿が露出するため、その人がふだん行なっている振る舞いができなくなります。また思うのですが、顔に急に強い光沢が現われてくるものもまた、その真が現われてきたものでしょう。梅聖兪面光沢〔訳注:梅聖のやわらかな顔に現われた光沢〕の類がこれです。これはまた、枯れそうになっている草木の精花が急に現われて甘露を生ずるようなものです。このような真臓の状態が現われるものは、その時病気でなくとも死にます。もし病気であれば当然、危険な状態です。この難では常を根拠として変を明らかにしています。浮沈は常であり、太過と不及とは変であり、覆溢は変の極みです。


問いて曰く。覆溢の脉状を表わすものの寸尺に脉動はあるのでしょうか、ないのでしょうか。

答えて曰く。私はかつてこのような脉状のものを診察しましたが、脉が魚際まで上っていたり、尺中に陥入しているものは、寸尺のもとの場所では脉は全く触れませんでした。ですから、寸尺に脉があるものは、覆溢とすることはできないでしょう。


問いて曰く。覆溢に病候はあるのでしょうか。

答えて曰く。太過と不及とには五臓の病症があります。覆溢には、三陰三陽の絶候〔訳注:三陰三陽の気が絶えた徴候〕と、昼に死ぬか夜に死ぬかの区別があります。二十四難を参考にすることができます。



一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ