第 三十四 難

第三十四難




三十四難に曰く。五臓にはそれぞれ声色臭味があります。この全てを明確に知ることができるでしょうか、できないでしょうか。


声・色・臭・味は古人が決まって語ることであり、ここに液を省略しているのは欠字ではなく液を兼ねて語っているものです。色・臭・味・声という順番ではなく、声・色・臭・味という順番であるということは、これが成語であるということが理解されます。


声は気の鼓動であり、色は気の発充であり、臭は気の通散であり、味は気の凝集であり、液は気の緩行です。


声には形がなく、気が激することによって肺から出、時に発し時に止むのは、陽動〔訳注:陽が動ずるということ〕には常態がないからです。また間に物があっても通じ、前後左右四方に聞こえますが、これは陽が通徹することの現われです。聖人や賢人の言葉は、声によって永久に伝えられます。信に至陽至尊〔訳注:陽の極み尊の極み〕でありこれを越えるものはありません。


色には形があり、常に存在していて起こったり滅びたりすることがありません。ただ顔色が時々変るだけです。視界は、前と左右とにあって後にはありません、かける部分があるわけです。けれども経典や書物は全て墨の色で書かれて伝えられます。尊崇すべき所でしょう。声は陽の尊であり、色は陰の尊です。


臭には形がなく、四方全てに薫ります。もし物によって包みくるむときには、外に出ることがありません。ですから遠くまで通ずることに関しては声には及びません。また理論的な物事を現わすこともできません。これは陽の卑であると言えます。


味には形があり、口の中で自分で感じることができるだけで、他人が理解することはできません。これは陰の卑です。もし五臓の気が欝伏するときは、その津が口内に溢れ、それぞれの味を感じます。これは胃が中和の味を失うためにそれぞれの臓腑の味が現われたものです。ですから反って外からの味を識別することはできなくなります。鏡が汚れていると他のものを映すことができなくなるようなものです。


液は形として現われます。津液が流れるというだけのことで、知恵と関係することはありません。陰の卑の甚しいものです。






然なり。十変として言いましょう。


十変は十数を用いて錯綜し、変化の道を語り尽そうとするものです。本文では五数を用いてこれを総括しています。数というものは多くありますが所詮は五にすぎません。一二三四五の五数を足していくと十五になります。これから五を引くと十になります。一二三四は四象の数であり、これを足していくとまた十になります。五数には二種類あります。そのひとつは一三五七九の天数五つと二四六八十の地数五つです。そのふたつめは一二三四五の生数五つと六七八九十の成数五つです。これは十を分けて両截〔訳注:二つ〕にしたものです。下截の六七八九十はそのまま上截の一二三四五です。五をふたつ重ねると十になります、十は数の極であり、極数をあげて変化を述べようとしているので、十変と名づけているのです。






肝は、色は青く、その臭は臊、その味は酸、その声は呼、その液は泣です。


青は陽が発してまだ明らかになってはいない色であり、臊は気が出始めてまだ薫融してはいない臭いであり、酸は気が湧いてまだ収閉している状態の味であり、呼は陽が激してまだ知られていない状態の声であり、泣は気が感じてまだ急迫している状態の液です。この五種類は皆な陽気が発動し始めた所でまだ舒泰〔訳注:ゆるやかでゆったりしている状態〕ではないという象です。天の春気と地の木気が人身に舎ったものです。






心は、色は赤く、その臭は焦、その味は苦、その声は言、その液は汗です。


赤は陽光が遠くへ達する色であり、焦は気が充満して薫炙している臭いであり、苦は気が烈しく濃厚な味です、だいたいにおいて火に焼けたことがある物は苦いものです、言は條理が通暢している状態の声であり、汗は表が発して渙散している状態の液です。この五種類は皆な陽気が通達して盛大となっているという象です。天の夏気と地の火気が人身に舎ったものです。






脾は、色は黄、その臭は香、その味は甘、その声は歌、その液は涎です。


黄は渾艶で〔訳注:艶やかに混じり〕介立〔訳注:独り立ち〕していない状態の色であり、香は和悦によって蕕悪〔訳注:悪臭〕を化した臭いであり、甘は緩和によって烈しい気を解した味であり、歌は歓楽によって音韻を調和させた声であり、涎は気が下垂して速やかには出ない液です。この五種類は皆な渾厚和緩〔訳注:悠然と混じりあって調和し緩んでいる状態〕の象です。天の和気と地の中気が人身に舎ったものです。






肺は、色は白く、その臭は腥、その味は辛、その声は哭、その液は涕です。


白は津が涸れ枯飄して〔訳注:枯れてさまよって〕いる色であり、腥は陽気が衰えて陰悪が生じている状態の臭いであり、辛は気が軽利で濃厚ではない味であり、哭は肅殺によって陽和が傷られた声であり、涕は気が上浮して降下してこない状態の液です。この五種類は、陽が浮散して凋零している〔訳注:しぼんでみすぼらしくなっている〕象です。天の秋気と地の金気が人身に舎ったものです。


問いて曰く。古の言葉に、甘は和を受け、白は釆〔訳注:美しい色彩〕を受けるとあります。ここに肝は色を主るというのであれば、青を色の本として釆を受けるようにすべきではないでしょうか。この考え方はどうですか。

答えて曰く。色は無色を本とします。白を本とするのは、白が青を剋して無色になったものだからです。水にもまた色はありませんけれども、これはその質がないからです。ですから金の色に依拠して、白を本としています。いわゆる絵を描くときは素白を背景にしています。また甘は庶蜜等の甘さではなく、その味が淡甘で味がないようなもののことを言っているのです。ですから味の本として諸味を調和するという役目を受けるわけです。《内経》にいわゆる穀味の酸や酸味の甘とあるものがこれです。






腎は、色は黒く、その臭は腐、その味は鹹、その声は呻、その液は唾です。


黒は沈んで深く幽黯な〔訳注:真っ暗な〕色であり、腐は陰悪穢濁の臭いであり、鹹は凝厚閉降の〔訳注:分厚く凝滞しで閉じ降る〕味であり、呻は沈下して困苦する声です。呻吟は内凝の声であり、吟詠もまた内感の声です、ともに徹底して声を発しています。唾は口内に納まっていて、他の諸液が流れ出るのとは異なります。唾が常時あるのは、腎が五液を主るからです。口は脾土に属し、唾は口内にあって玉池と名づけられています、井泉の地中から涌き出しているようなものです。水の味はもともとは鹹であるのに反って甘美となっている理由は、土中から化出しているからです。この五種類は皆な陰濁沈蔵の象です。天の冬気と地の水気が人身に舎ったものです。






これが五臓の声色臭味です。


問いに合わせています。


問いて曰く。青黒を寒とし黄赤を熱とすることは、色を診る際の要です。今これについて論じていないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。この《難経》では、四時五行によって脉色や病状が貫ぬかれているということから転じて詳しい考察を加えているものです。あの青黒を寒とするというものは冬春の陰寒の色のことであり、黄赤を熱とするというものは夏気の陽熱の色のことです、これがその大義となります。これをさらに詳しく考えていくと、冬や春には陽が内にあるように、青黒であっても内熱があるということがわかり、夏や秋に陰が内にあるように、黄赤であても裏寒のものがあるということがわかります。また、仮寒や仮熱というものもこの意味であるということがわかります。おおむね浮濁のものは熱陽が升っている状態であり、沈惨のものは寒陰が降っている状態です。また青色には肝実と肝虚との違いがあります。他の色もそうです。


そもそもまた思うのですが、畏怖して顔色が青くなるのは、陽気が消えて陰中に陥った状態です。中悪〔訳注:悪鬼の祟りによる病〕によって青黒くなるものは、陰悪の邪に触れ冒されたためです。怒激によって顔色が赤くなるものは、血気が逆上したものです。愧情〔訳注:恥ずかしさ〕のために赧(あか)くなるものは、心が欝熱したためです。赤くなったり白くなったりするものは、心熱が集散しているものです。両観〔訳注:頬骨の突起部分〕が拇指の大きさくらい赤くなったものは、大骨が焦げたものです。飲酒によって顔が赤くなるものは、血脉が沸騰したものです。飲酒してときどき青くなるものは、酒熱が内に伏したものです。初生児が赤いのは、血凝の本質が現われたものです。初生児が日がたつに従って白くなるのは、皮膚が気化によってその正色となっていったものです。顔色が黄濁なものは、胃中に湿熱があるものです。鼻頭が黄色いものは、鼻は肺に属しますけれども顔面中央に位置するということからまた脾を候いますので、脾肺に湿熱があって小便がよく出ない状態です。目眥が黄色いものは、病が治りかけ胃の気が回復してきた徴候です。睡眠時に顔色が白くなるのは、血が陰分に帰納するからです。虫積によって顔色が白くなるのは、気が虚したために陰の物が内に生じたためです。下血して顔色が黄白になるのは、腸胃の血が脱したためです。下血して顔色が青を帯びるのは、血海も従って脱したものです。老衰によって黒くなり痩せるのは、光彩が減却したためです。日がたって色が黒赤くなったものは、火が皮膚を剋したためです。黒は煙の色です、中暑によって顔が垢づくのもこのためです。壮人〔訳注:元気な人〕で黧黒色〔訳注:黄色がかった黒色〕なのは、肺熱です。虚人〔訳注:病弱な人〕で黧黒色なのは陽虚です。熱病で顔や鼻が煤を帯びたように黒くなっているものは、火焔によります。けれども胃寒が甚だしいためにこのような状態になる場合もあります。鼻頭が紫黒いものは、血凝によります。顔や唇が青黒くなるのは、寒によります。黒斑が出ているものは、熱毒によって血が乱れたものです。黒点が生じているものは<瘀血です。黒い気が天庭を覆っているものは、清陽が亡びたために陰気が現われたものです。


また青眼のものは相手を好いており、白眼のものは相手を悪んでいます。婉容〔訳注:優しげで〕で和色〔訳注:調和のとれた色〕を帯びているものは、深い愛があります。喜ぶべきときに憂いの色を呈するものは、心になにか異変を生じたためです。勇者であるのに怯えたような様子をするのは、敵を欺こうとしているものです。五色の変化はその全てを示すことはできません。ここには大まかな範囲であげているだけです。


問いて曰く。声もまた四時〔訳注:四季〕で考えるべきなのでしょうか。

答えて曰く。軽清な声のものは、陽が虚して陰が生じたものであって秋に象ります。感慨や怨嗟は、皆な哭の類です。声が重濁なものは、脾が湿によって壅滞しているものであり、土に象ります。遅緩で柔弱な声は、皆な歌の類です。呵咄(かとつ)〔訳注:大声で叱り責めること〕は陽が発して陰が敗れたものであり春に象ります。條長な〔訳注:伸びやかで長い〕叫喚は、皆な呼の類です。笑傲〔訳注:からからと笑う声〕は、陽の亢極であり、夏に象ります。高渡な〔訳注:強く激しい〕狂譫〔訳注:狂ったようなたわごと〕の声は、皆な言の類です。沈み吟ずるような声は、陽が潜入したものであり、冬に象ります。卑〔訳注:低い声〕〔訳注:とつとつとした話し方〕〔訳注:力のない話し方〕〔訳注:詰まったような話し方〕の声は、皆な呻の類です。また外感によって声が重くなるのは、邪が気を塞いだものです。声が激しいものは、熱勢が上逆したものです。声が出ないものは、邪が清道を塞いだものです。内傷によって声が軽くなるものは、気が収まらないためです。声が微かになるものは、気が接続しなくなっているためです。嗄嘶する〔訳注:かれてかすれた〕声のものは、肺が乾き渋っているためです。声が唖する〔訳注:あっけにとられてものが言えなくなる状態の〕ものは、陽気が消え去ったためです。房後に声が変わるものは、腎が栄養を肺に求めるために声が清朗ではなくなるのです。畏怖によって声が震えるのは、気が守られなくなるためです。愛憐によって声が軟かくなるものは、心が媚悦して〔訳注:媚び喜んで〕堅い操〔訳注:強固な貞操観念〕がなくなるためです。哭するときに恐れるような声があるものは、隠れた悪事があって心が畏縮しているためです。尊い人と卑しい人とその声が異なっている理由は、その居住する場所によって気が変化するからです。このように五声は陰陽の理を離れることはないのですが、その変化について語り尽すことはできません。


ひそかに考えているのですが、今の時代には神楽というものがあり、男が節をつけて女が舞います、朴粗で簡易であって、水のように淡く、習熟することなくとも調和が取れ、老少や巧拙を区別することもありません。聞き手の方は、平素の心を動かすことなく、その楽しみに耽ることも、それを忌避することもありません。これこそまことに上古の神代の時代から受け継がれてきた遺音でありましょう。伝説の中古の時代の上宮の王は、華〔訳注:中国〕・竺〔訳注:天竺すなわちインド〕・韓〔訳注:朝鮮〕のものを参考にして音楽を作りました。その音は優美で斉荘〔訳注:調和がとれていて荘重なこと〕であり、これを聞く者は邪侈〔訳注:よこしまな心〕を遠ざけて中正な心に帰したと言われています。けれどもそれの節を演奏するのは容易ではなく、深い訓練を通して始めて演奏することができるほどのものでした。これは中世の美の極みであり、徳化の至極であると言うことができましょう。後世、東山公の時代になって、新しい音楽形式が製作されました。その音は剛毅で厳格であり、これを聞く者は、忠義の心に発憤して怠慢を遠ざけ、功業〔訳注:功績の大きな仕事〕をなそうと決意したと言われています。これはまことに武徳の威厳によって屈伏させようとする音であり、家をひとつにまとめて国を治めるに足る、徳音であると言うことができるでしょう。今、俗世間では、浮虚艶媚凄愴猥鄙な〔訳注:浮ついたもの・内容がないもの・艶っぽいもの・媚びるようなもの・悲しく痛ましいもの・猥雑なもの・ひなびたものといった〕音楽があります。これに和すると流され、哀しみに傷られるといった、いわゆる溺れるような音楽です。これにどっぷりと漬かったものは、最後には心が乱れて仕事が荒くなり、住処もなくなって流浪するといった事態から逃れられなくなります。よく考えてみてください。


仏教徒の中には、称名を唱えることによって宗〔訳注:根本経義〕としているものがあります。昼も夜も休むことなく称名を唱えることを常念と呼びます。その声は柔婉で〔訳注:柔らかく〕淫せず〔訳注:汚らわしさがなく〕、愴愴〔訳注:痛ましく悲しい感じ〕ではありますがそれに傷られるということはありません。これを聞く者は、自然に怒りを手放し欲から遠ざかる心を生じます。さらには、世事の煩わしさから逃れて隠遁することまで考えます。これらは皆なその声を聞いてその徳を知ることができたものです。華竺〔訳注:中華と天竺〕ははるかに遠いためその声を聞くことはできませんが、竺墳華典〔訳注:天竺と中華に存在する仏教経典〕は全て金口聖語を紙に墨で残したものですから、その語を理解することもその音を知ることもでき、さらに心を一つにすることができれば、華竺の声もまたいながらにして知ることができます。


問いて曰く。臭についても詳しく知ることができるのでしょうか。

答えて曰く。臭は火化によって生じますので熱の症状がないものには臭気もありません。また臭には自分で感じるものと他人が感じるものとがあります。血が枯れ臊い匂いがするものは、肝が虚して熱を生じているものです。婦人の悪阻のときに臊い匂いがするものは、血海が胎を育んでいるために肝が動じているためです。焦げ臭い匂いがするものは、心熱が上に浮かんでいるためです。口が臭いものは胃熱です。噯腐するものは胃中の食熱です。物が腐敗すると、そこにかならず蒸熱が生じます。腥い匂いがするものは、肺熱です。腐れ臭い匂いがするものは、腎熱です。唾は腎に属しますが、その匂いが甘い香りである理由は、唾が土によって化されて香しくなるのです。右にあげたものは、全て自分で感じるものです。


熱臭を感じるものは、熱欝か化熱が甚だしい場合です。腋下に狐臭がするものは、肝火による臊臭です。前陰に臊腐の匂いがするものは、肝腎の熱です。陰液が腐れ臭いものは、腎から出ている匂いです。二便に焦腐の匂いが激しいものは、三焦の火化によって〔訳注:二便が〕汚瀆に〔訳注:汚れた溝に〕落ちたためです。尸臭〔訳注:死臭〕が強くて近づくこともできないような人は、臓が絶して真臭を発しているためです。私はひとりの病んでいる女性を診察したことがありますが、その臊気はあまりに強くて嗅ぐことのできないほどでした、この人は肝がその真臭を発して絶していたのでした。ここに掲げたものの多くは他人が感じる匂いです。


問いて曰く。獣類がよく匂いを嗅ぎ分けることができるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。声は陽の尊ですから人は声を理解することに長じています、臭は陽の卑ですから獣は臭を知ることに勝っています。


これはどういうことかというと、咳払いを聞いたり足音を聞いて暗に誰のものかということを感じ取り、声を聞いてそれの老若男女を弁別するといった類は、人が長じている部分であるということです。仏教徒の説に、「目は障子の外を見ることはできず、口や鼻も同じこと、体は触れることによってはじめて知ることができ、心は念いが散ずると緒に付くこともできなくなる。けれども音響は、塀を隔てていても聞くことができ、遠くとも近くとも聞くことができ、十方で太鼓を打ち鳴らすとその十ヶ所の音を同時に聞くことができる。このようなわけで耳門〔訳注:聴覚〕を本根〔訳注:根本〕としてこれを尊ぶ。」とあります。


獣類は嗅ぐことによっていろいろなものを区別することができます。ですから檻に入れたり袋に入れたりして遠く数里も離れた所に放してきても、匂いを嗅ぐという能力によって元の居場所に帰ってきます。鼻には出入りする呼吸があります、呼吸が入るときには嗅ぐことができますが、呼吸が出るときには嗅ぐことはできません。これは偏〔訳注:半分〕であり欠けていますので、偏生の物にしか通じていません。人はそもそも万物の霊長なのですから、通じない場所はありません。嗅ぐことによって陽気の中に玄気〔訳注:北方の気・微妙で奥深い気〕があることを感じたり、春秋に血生臭い匂いを嗅ぎとったり、琴を弾いている音を聞いてその中に殺意がこもっているのを感じたり、あるいはまた獣の言葉を聞いて理解することができるといったものなどがあります。しかしこれらは皆な細心の人にあって初めてできうることで、凡庸な常人には及ぶことのできない所です。


問いて曰く。人に五味の好き嫌いがあるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。味は中和を本とし、その味は誰でも好むものです。小児が甘味を好んで他の味を嫌うのは、このためです。病気となっている人は、臓腑が偏勝しているため、その嗜好にもそれぞれの違いが出てきます。


ですから心熱によって痞悶する場合は、苦味を好みます。肝血が乾くときは、酸味を好みます。血の味は酸であり、酸味を摂ることによって同じ味を助けるからです。婦人が悪阻のときに酸味を好むのは、やはり肝血が乏しいからです。胎は腎の胞〔訳注:子宮〕の中にありますが、それを育てるものは肝血です。肝は発生の府だからです。また妊婦が悪心したり・阻食する〔訳注:食欲がなくなる〕理由は、肝が動じて脾に乗ずるためです。脾気が衰えるときは、甘味を好みます。肺欝や停飲するときは、辛味を好みます。腎気が収斂しなかったり腎が冷えるときは、鹹味を好みます。それぞれその味を求めることによって、不足している臓気を助けるわけです。


肝が病んで辛味を好むものがあります。これは乙〔訳注:木で酸で肝〕と庚〔訳注:金で肺で辛〕とが合したものです。脾が病んで酸味を好むものは、甲〔訳注:木で酸で肝〕と己〔訳注:土で甘で脾〕が合したものです。他もまた同じように考えていきます。


また虫瘕〔訳注:寄生虫が原因でできる癥瘕〕によって泥・炭・米・茶といったものを好み、怪病によって酒や油を好むといった場合もあります。また菓蓏〔訳注:瓜類〕を食べて穀を絶ったり、硫附〔訳注:硫黄や附子〕を食べたり、薑〔訳注:生姜や葶藶子〕を食べることを好むといったような、偏ったものもあります。


また食を絶っても衰弱することがないという奇異な人もいます。私は一人の女性が、病でもないのに食欲がなくなり、ついに絶食するようになって数年経ってもその神や顔色が普段のままのものを見たことがありますし、一人の女性が、生まれてからこのかた赤豆を食べるだけで穀物を断ち、出産し育児をしているものを見たこともあります。さらに道家には、気を服し・露を吸い・霞を餐し・五穀を避けるといった術があります。このような変わった例は非常にたくさんあるものです。


問いて曰く。地は人を養うために五味をもってします。けれども五味の中で特に水穀の甘淡を多く食べる理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。人は本来五味を食べることによってその五臓を養うものです。ただ極端な味を避けているだけのことです。この五味の中で土気による中和を得ているものは、粳〔訳注:うるち米〕の甘・黍の辛・麻の酸・麦の苦・豆の鹹などです。人は常時これを食べていても飽きることがありません。また五味の中で偏った味であって中和の気がないものは、蔗〔訳注:さとうきび〕の甘・蓼〔訳注:たで〕の辛・梅の酸・塩の鹹・諸胆の苦などがあります。人はこのようなものを食べることはありますが、常食するには耐えられません。もしこのようなものを常食すると、五臓が偏勝するために病を生ずることになります。ただ甘淡の味は土気の化したものですから、いわゆる「聖人は土に飲し土に食する」というわけです。


問いて曰く。津液と精血とはどのように区別するのでしょうか。

答えて曰く。泣・汗・涎・涕はみな鹹悪です。鹹は水の正味であり、海水と同じ味です。唾津は土によって化され口内に生ずるため甘美です。精は腎に出、尿は膀胱に出ますので、鹹のうちでももっとも臭悪なものです。水には色がなく、そこに色が出るときは金の色に託すため白色になります。血は心に属しますが、肝は血海であるためにその味は酸です。これは火に体がなく、木を体とすることの現われです。水の鹹味が木に舎るときは、曲直〔訳注:木〕の化を得るために酸味となり、その鹹味は潤下して地下に滲みこみます。ですから草木には鹹味がないのです。






五臓には七神があります。それぞれどこに蔵されるのでしょうか。


上で述べた声・色・臭・味は、形気がありますのでその用は卑です。ここで述べる七神は、声もなく臭もない至尊至宝のものです。この数はどうして増えるのでしょうか。五臓は五神が舎る場所ですが、これを七神とする理由は、五音を七音とし、五弦を七弦とするようなものです。二を加えることによってその妙用の全てを表わし尽そうとしているわけです。






然なり。臓は人の神気を舎し蔵する場所です。


神は不測の妙用〔訳注:推し測ることもできないほどの妙なる働き〕です、気は神に気機があるものであり、七神はもともと一つの神気が変化してできたものです。神はあるいは一物に帰し、あるいは万殊に分かれて出没自在なものなのです。これこそ天地の神霊そのものであり、〔訳注:いわゆる神とは〕それが人身に賦与されたもののことです。






ですから、肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智とを蔵し、腎は精と志とを蔵するのです。


「魂」は神気が往来し動揺して謀慮するものであり、内明がまさに出ようとしている状態で、春木の象です。「魄」は神気が清浄安静で内鑑する〔訳注:内省する〕ものであり、外明が内に入っている状態であり、秋金の象です。「神」は光明の炳照〔訳注:光り輝くこと〕が内外に透徹している状態であり、夏火の象で、七神の主です。「意」は念起する〔訳注:思いを立てる〕所があって虚(うつろ)ではなく、「智」は識察する所があって妄〔訳注:でたらめ〕ではありません。憶する〔訳注:思う〕所を意と名づけ、陰に属するとし、物事に対処する所を智と名づけ、陽に属するとします。もし意智がなければ、七神全ては空虚なものとなりその用〔訳注:機能〕をなすことができません。つまり意智は七神の地となるものなのです。土は陰陽を兼ね司りますので二種類の神があります。「精」は一点の霊物が凝固して人身の根本となるものであり、「志」は霊気が行く所であり総督の元帥となるものです。七神の根本であるこのような精がない場合は、長期にわたって仕事をし続けることができません。精が七神に凝固して修錬するときはじめて功が成り、物事を成し遂げることができます。木石の精・星辰の精・魑魅魍魎の類も全てその気が集まって化生したものであり、人もまた天地の精です。《易》に、『精気は物となる』とあるのがこれです。志とは学問を志すといったときの志のようなものです。善く行ないそして止まるものです。行なうということは水の勢いであり、止まるということは水の体です、物を照すことができないということは冬蔵の象であり、志すという一点の霊精は厳冬の中に一陽来復するようなものです。この、志が七神を化すということは、来復した一陽が徐々に舒びて四時〔訳注:四季〕となるようなものです。そもそも七神は志が往くことによって〔訳注:前進して〕数々の変化を遂げたものなのですから、志こそがいわゆる諸神精の舎る場所であるということを知らなければなりません。人は志を立てることによってはじめて聖者となり・勇者となり・諸名家となります、これらは全て精の凝結したものなのです。道士は水を観ることによってその身を水に化し、画家は牛を念じることによって身を牛に化すといった類は、このような精の凝結の甚だしいものです。人が虎に化したり石に化したりするといった類の、精が往き他物に変化するということは、精神の妙用が窮めることもできないほど深いものであるということを表わしています。



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